建造~太平洋戦争開戦まで
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「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
1922年(大正11年)10月26日、佐世保鎮守府にあて佐世保海軍工廠での一等駆逐艦1隻の建造が訓令された。訓令時の予算は大正11年度から同13年度(1925年3月31日まで)の総額2,498,662円(兵装費は除く)だった翌1923年(大正12年)1月27日、佐世保海軍工廠建造の一等駆逐艦は第十七駆逐艦と命名された。同年9月1日、または9月17日に起工し、1924年(大正13年)4月23日に進水、24日に第17号駆逐艦と改称した。1925年(大正14年)4月24日に竣工、5月1日に第15号駆逐艦(朝凪)と共に第29駆逐隊を編制した。 9月10日、第29駆逐隊は第二艦隊に編入された。12月25日に第13号駆逐艦(疾風)が編入され、第11号駆逐艦(追風)と合わせ4隻体制となった。 1928年(昭和3年)8月1日、番号表記の駆逐艦が同時に改称され、夕凪(ゆふなぎ)と命名された。 1933年(昭和8年)11月15日、第29駆逐隊は第一艦隊所属となる。1935年(昭和10年)11月15日、日本海軍は朝凪と夕凪で第28駆逐隊を新編した。1936年(昭和11年)6月1日、海軍は水上機母艦神威と第28駆逐隊(朝凪、夕凪)で第三航空戦隊を編制し、6月28日-10月17日、南洋で水上基地候補地の調査のためマリアナ諸島、カロリン諸島を航海した。 12月1日附で、第三航空戦隊は第十二戦隊に改編された。1937年(昭和12年)1月28日-7月10日、第十二戦隊(敷設艦〈沖島〉、水上機母艦〈神威〉、第28駆逐隊〈朝凪、夕凪〉)により、再び七ヶ月におよぶ南洋の調査を行った。同時期、盧溝橋事件や第二次上海事変により中国大陸情勢は緊迫の度合いを増す。8月27日、海軍はふたたび3隻(神威、朝凪、夕凪)で第三航空戦隊を編成した。10月20日、第3予備艦となり佐世保警備戦隊に編入した。 1940年(昭和15年)11月上旬にかけて朝凪は函館港、夕凪は第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)と共に佐世保・長崎港の防御を担当した。11月15日に第28駆逐隊は解隊し、第29駆逐隊に編入される。中部太平洋を担務する第四艦隊隷下の第六水雷戦隊(軽巡洋艦〈夕張〉、第29駆逐隊〈追風、疾風、朝凪、夕凪〉、第30駆逐隊〈睦月、如月、弥生、望月〉)に所属した。1941年(昭和16年)前期、第四艦隊は中部太平洋諸島での演習や訓練に従事し、トラック泊地を拠点に行動しながら第四航空戦隊や第六艦隊との共同訓練も実施した。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「神風 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
詳細は「神風型駆逐艦」を参照 1918年(大正7年)、八六艦隊案で一等駆逐艦11隻の建造計画が議会で承認され、当時の主力駆逐艦峯風型駆逐艦6隻と共に峯風型の改良型駆逐艦3隻の建造が予算化された。1920年(大正9年)の八八艦隊案で駆逐艦32隻の建造が承認されると、峯風型以降の駆逐艦名は量産化に対応するため、番号表記に変更された。1921年(大正10年)10月12日、着工を予定する改良型駆逐艦7隻に第一、第三、第五、第七、第九、第十一、第十三駆逐艦の各艦名が与えられ、第一駆逐艦が12月15日に三菱長崎造船所で起工した。これが後の神風である。 1922年(大正11年)8月24日、第一駆逐艦は艦艇類別等級表に登録された。9月25日に進水。12月28日に竣工し、横須賀鎮守府籍となった。 第二から第二十六までの偶数番号は、若竹型駆逐艦に充てられた。 建造当初の第一駆逐艦は基準排水量1270トン、航続距離14ノット3,600カイリ、主砲12センチ単装砲4門、53センチ魚雷連装発射管3基6門で、基本性能は峯風型を上回ったが艦型を含めた抜本的な変更はなかった。1923年(大正12年)1月6日、第一駆逐艦は峯風型駆逐艦3隻(野風、波風、沼風)の第1駆逐隊に編入され、第3駆逐隊(汐風、夕風、太刀風、帆風)と共に第二水雷戦隊(旗艦:軽巡北上)に所属した。9月1日の関東大震災発生時は、第二水雷戦隊等と共に航海中だったが、救援活動のため各艦と共へ横須賀に戻った。1924年(大正13年)4月24日、第一号駆逐艦に改称され、1926年(大正15年)12月1日、同型艦に第一号型駆逐艦の呼称が設けられた。 1928年(昭和3年)4月1日、掃海艇となっていた初代・神風が除籍された。8月1日、第一号駆逐艦は神風型駆逐艦・神風と改名され、同型艦8隻も峯風型同様、すべて風にちなんだ新艦名(朝風〔第三号〕、春風〔第五号〕、松風〔第七号〕、旗風〔第九号〕、追風〔第十一号〕、疾風〔第十三号〕 、朝凪〔第十五号〕、夕凪〔第十七号〕)が与えられた。1929年(昭和4年)11月30日から1年間、第1駆逐隊(野風、沼風、波風、神風)は空母加賀と第一航空戦隊を編成した。1930年(昭和5年)12月1日、第1駆逐隊は第1航空戦隊を外れ、横須賀鎮守府警備艦船予定となった。同日から1931年(昭和6年)1月31日まで、駆逐隊司令は小沢治三郎大佐が務めた。日中戦争では華北、華中の沿岸作戦に従事した。1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震発生時、神風は横須賀港にあり、第1駆逐隊の野風 ・沼風、第6駆逐隊の電・雷と共に同日午後に出港した。野風は4日早朝までに宮城県の気仙沼に着き、救援にあたった。 峯風型、神風型の基本設計は続く睦月型駆逐艦でも踏襲されたが、1929-32年にかけて1700トン級の吹雪型駆逐艦24隻が順次竣工し、1936年(昭和11年)にワシントン海軍軍縮条約が失効して駆逐艦の大型化・重武装化が進むと、峯風型・神風型・睦月型の駆逐艦は主力艦隊の護衛や第一線の水雷戦隊から徐々に外れ、近海の警備や哨戒、船団護衛などの後方支援が多くなった。1939年(昭和14年)11月15日に第1駆逐隊(神風、野風、波風)は大湊要港部所属となり、1940年(昭和15年)2月10日に沼風が再編入した。太平洋戦争の開戦時には睦月型以前の駆逐艦は旧式化しており、北洋警備の駆逐艦の代替として建造された占守型海防艦4隻(占守、国後、八丈、石垣)が開戦直前に就役したが、神風など第1駆逐隊は、戦争中期まで北方警備を担い続けた。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「疾風 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
1921年(大正10年)10月12日、峯風型駆逐艦の改良型となる駆逐艦(後の神風型駆逐艦)7隻に、第一~第十三までの奇数番の駆逐艦名が与えられた。後に疾風となる第十三駆逐艦は1922年(大正11年)8月24日、艦艇類別等級表に登録された。9月11日、第十三駆逐艦は石川島造船所で建造される事が決まり、11月11日に起工した。建造中の1924年(大正13年)4月24日、艦名が第十三号駆逐艦に変わった。1925年(大正14年)3月23日午後4時に進水し、12月21日に竣工した。 12月25日、第十三号駆逐艦は佐世保鎮守府籍となり、同型艦の第十一号駆逐艦(追風)、第十五号駆逐艦(朝凪)、第十七号駆逐艦(夕凪)と共に第二艦隊・第二水雷戦隊の第29駆逐隊に編入された(艦隊編制は文献参照)。 1926年(大正15年)4月2日、第二水雷戦隊が済州島西方沖を航行中、第十三号駆逐艦は第五号駆逐艦(春風)に衝突、軽い損傷を受けた。1928年(昭和3年)8月1日、同型艦9隻の番号艦名が一斉に変更され、第十三号駆逐艦は疾風に改名された。同型艦の呼称は神風型駆逐艦に変更された。12月10日、第29駆逐隊4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)は舞鶴要港部に配備された。同隊は1929年(昭和4年)11月30日に鎮海要港部、1930年(昭和5年)12月1日に第一艦隊、1931年(昭和6年)12月1日に鎮海要港部、1933年(昭和8年)11月15日に第一艦隊と転属した。 1935年(昭和10年)11月15日、第29駆逐隊は疾風と追風の2隻となり、空母加賀と共に、第二艦隊麾下の第二航空戦隊を1年間編制した。1936年(昭和11年)12月1日-1937年(昭和12年)7月28日までは佐世保警備戦隊の所属となった。 同年8月に第二次上海事変が勃発すると、第29駆逐隊も中国で行動した。9月6日、疾風は広東省・珠江の河口付近で陸上の陣地を砲撃した。13日には中華民国空軍2機に爆撃された。14日、軽巡夕張(第五水雷戦隊旗艦)と第29駆逐隊(追風、疾風)は珠江を遡行し、虎門要塞から出撃してきた肇和級防護巡洋艦肇和と交戦した。追風が別の艦艇と戦い、夕張と疾風は砲撃戦で肇和を座礁に追い込んだ。泊地に戻る途中、クレア・リー・シェンノートが率いる中華民国空軍のA-17軽爆撃機 12機の攻撃を受け、夕張の乗員が負傷した。9月27日、疾風と追風は陸上の砲台を砲撃した。 第29駆逐隊(追風、疾風)は1937年(昭和12年)11月から2年間、第一航空戦隊に所属し、その間も中国方面で活動した。この時期の一航戦の空母は加賀(昭和13年12月15日まで)もしくは赤城(昭和13年12月15日から)であり、第五艦隊の作戦に従事した。1939年(昭和14年)11月15日、第29駆逐隊は第一航空戦隊から外れた。1940年(昭和15年)には鎮海要港部や釜山を拠点に、朝鮮半島沿岸の警備任務に従事した。 1940年(昭和15年)11月15日、第29駆逐隊は再び神風型4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)となった。同15日付で、トラック泊地を根拠地とする第四艦隊隷下に新編された第六水雷戦隊に配属された。第六水雷戦隊は軽巡夕張、第29駆逐隊(追風、疾風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、望月)で編成されていた。1941年(昭和16年)1月以降、第十八戦隊(鹿島、天龍、龍田)や第六水雷戦隊を基幹とする第四艦隊は、マリアナ諸島やカロリン諸島で訓練や演習を行った。この演習には第四航空戦隊や第六艦隊も加わった。6月22日の独ソ戦開戦により、第四艦隊は内南洋常駐となった。7月22日、第四艦隊の3隻(鹿島、夕張、朝凪)を除く各艦は、太平洋戦争の開戦に備えて日本本土での整備を命じられ、疾風も内地に戻った。7月25日、高塚実少佐が艦長に就いた。10月中旬から下旬にかけ、疾風を含む第四艦隊各艦はトラック泊地に集結した。またグアム島攻略作戦等に備え、各方面の部隊や艦艇が、南洋部隊(指揮官は第四艦隊司令長官井上成美海軍中将)に編入された。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「三隈 (重巡洋艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした。三隈は1931年(昭和6年)12月24日、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工した。 建造に当たっては、鋼材の接合に当時の日本海軍では少数だった電気溶接が多用された。 1932年(昭和7年)8月1日、最上型1番艦が最上、2番艦が三隈と命名された。同日付で艦艇類別等級表に最上型が新設された。 1934年(昭和9年)5月31日に進水した。翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが、藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断された。最上を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、三隈も補強工事を行う。 1935年(昭和10年)8月29日に竣工。この時点で基準排水量は1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった。艦内神社は大原八幡宮。 竣工した三隈は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日、三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した。11月15日、三隈は第2予備艦に指定。三隈は11月30日より呉工廠に入渠、修理や調整を行う。 1936年(昭和11年)2月5日に出渠、4月1日より第3予備艦となる。 1937年(昭和12年)5月7日から10月31日にかけて呉工廠に入渠。12月1日、最上型巡洋艦で第七戦隊が編制された。 1939年(昭和14年)5月20日、第3予備艦に指定された。11月15日、第七戦隊旗艦は熊野に指定された。三隈は特別役務艦となり、主砲換装工事にとりかかる。12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する20.3cm連装砲塔5基に換装した。1940年(昭和15年)5月1日、工事を終えた三隈は第七戦隊に復帰した。 第七戦隊は1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争の開戦を、司令官栗田健男少将、第一小隊に熊野、鈴谷、第二小隊に三隈、最上の編制で迎えた。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「子日 (初春型駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
浦賀船渠で仮称第60号駆逐艦として1931年(昭和6年)12月15日に起工した。1932年(昭和7年)8月1日、艦艇類別等級表に初春型駆逐艦が新設され、3隻に初春、子日、若葉の艦名が与えられた。12月22日に進水。竣工前の1933年(昭和8年)9月、公試運転中の旋回性能試験で復原性能が著しく低いことが判明した。このため初春と同じ9月30日に竣工したが、すぐにバルジを増設する工事が行われた。初春と子日は11月15日に第21駆逐隊を編制した。 しかし1934年(昭和9年)3月に友鶴事件が発生し、再び呉海軍工廠で大規模な改修工事に入った。初春と共に2番砲塔を後部に移すなど上部構造を含む大幅な変更を行い、外観も大きく変わった。建造中に同様の改装を行った4番艦初霜が9月27日、3番艦若葉が10月31日に竣工し、ようやく第21駆逐隊に同型4隻がそろった。11月15日、第21駆逐隊は第一艦隊・第一水雷戦隊に編入した。1935年(昭和10年)9月に第四艦隊事件が発生して船体強度の見直しが図られた結果、子日は佐世保工廠で三度目の大規模な工事を行い、最終的に最大速力が33ノットまで低下した。 1939年(昭和14年)11月15日、第21駆逐隊は第二遣支艦隊第15戦隊に編入され、中国南部で活動した。1940年(昭和15年)7月、 ハノイに入港し仏印監視団の西原機関の無線局となった。さらにハイフォンに移動し9月までその役割を担った。11月15日、千本木十三四少佐が艦長に就任した。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「水無月 (睦月型駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
1923年度の大正12年度艦艇補充計画艦。1924年(大正13年)11月10日、浦賀船渠で建造する一等駆逐艦に第28号駆逐艦の艦名が与えられ、艦艇類別等級表に登録された。 1925年(大正14年)3月24日に起工、1926年(大正15年)5月25日に進水。1927年(昭和2年)3月22日に竣工し、佐世保鎮守府に配属された。4月1日、第27号駆逐艦(皐月)と第29駆逐艦(文月)のいる第22駆逐隊に編入した。5月20日、第30号駆逐艦(長月)が駆逐隊に編入した。 1928年(昭和3年)8月1日に番号名の駆逐艦が一斉に改称され、第28号駆逐艦は水無月となった。1931年(昭和6年)12月1日、第一艦隊・第一水雷戦隊に配属された。 1934年(昭和9年)9月27日、演習中に皐月が発射した魚雷が迷走して水無月の艦尾に命中、スクリューを損傷した。10月12日夜、演習中に沖縄東方沖で駆逐艦夕風と衝突、双方が損傷したが負傷者はなかった。 1936年(昭和11年)12月1日、空母加賀と第22駆逐隊(文月、水無月、皐月、長月)は第二航空戦隊を編制、支那事変のため中国大陸沿岸部を行動した。1937年(昭和12年)10月20日、第22駆逐隊は第二航空戦隊の所属を解かれた。 1941年(昭和16年)1月、軽巡名取等と中国大陸方面で行動した。4月10日、第22駆逐隊は第五水雷戦隊に編入。5月24日、臨時に第五水雷戦隊旗艦となった。9月20日、平山敏夫少佐が艦長に就いた。
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「睦月 (駆逐艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
睦月型の艦名は当初番号名であった。睦月は1923年7月19日に第十九駆逐艦の艦名で舞鶴工作部での建造が決まったが、1924年(大正13年)4月24日に第十九号駆逐艦に変更された。建造も佐世保海軍工廠に変更になり、同年5月21日に起工、1925年(大正14年)7月23日に進水。1926年(大正15年)3月25日に竣工した。佐世保鎮守府に所属し、4月1日に第二十一号駆逐艦と第三十駆逐隊を編成した。 1928年(昭和3年)8月1日に駆逐艦の番号艦名が一斉改称され、第十九号駆逐艦は睦月となった。1930年(昭和5年)11月中旬、昭和天皇が岡山県宇野への行幸から横須賀に戻る際、御召艦・戦艦霧島の供奉艦に第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)が就いた。1935年(昭和10年)9月26日-27日の演習中に第四艦隊事件に遭遇し、大波で艦橋が破壊されて航海長が死亡した。艦の制御が一時不能になったが、一人の水兵が舵輪で応急操舵し、睦月は沈没を免れた。修理の時に設計が変更され、艦橋の形が変わった(詳細は睦月型駆逐艦参照)。1937年(昭和12年)から支那事変により中支、南支方面に進出した。 1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が勃発。日本海軍は野村吉三郎中将を司令長官とする第三艦隊(旗艦「出雲」)を編制する。第一艦隊所属だった第一水雷戦隊(旗艦「夕張」、第22駆逐隊《皐月、水無月、文月、長月》、第23駆逐隊《菊月、三日月、望月、夕月》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、卯月》)は第三艦隊に臨時編入され、第一航空戦隊(空母加賀、鳳翔、第2駆逐隊《峯風、澤風、矢風、沖風》)、第三戦隊(那珂、阿武隈、由良)等と共に上海市で集結、同方面で作戦行動に従事した。 1935年(昭和10年)9月26日-27日の演習中に第四艦隊事件に遭遇し、大波で艦橋が破壊されて航海長が死亡した。艦の制御が一時不能になったが、一人の水兵が舵輪で応急操舵し、睦月は沈没を免れた。修理の時に設計が変更され、艦橋の形が変わった(詳細は睦月型駆逐艦参照)。1937年(昭和12年)から支那事変により中支、南支方面に進出した。 1936年(昭和11年)12月の配置替えにより、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)は第一航空戦隊(司令官高須四郎少将:空母龍驤、鳳翔)に編入された。1937年(昭和12年)8月上旬の第二次上海事変により、第一航空戦隊と第二航空戦隊(加賀、第22駆逐隊《皐月、水無月、文月、長月》)は第三艦隊の指揮下に入ると(一航戦は8月6日、二航戦は8月10日編入)、東シナ海へ進出した。8月16日以降、第30駆逐隊は空母「龍驤、鳳翔」を護衛して作戦に従事した。同年12月1日の戦時編制変更により、第一航空戦隊は空母「加賀」及び第19駆逐隊(磯波、敷波、浦波、綾波)となり、空母「龍驤」と駆逐艦「如月、弥生」が第二航空戦隊となる。同航空戦隊は翌年1月の青島上陸作戦や10月の広東上陸作戦に従事、以後も南シナ海で行動した。その後、第30駆逐隊は予備隊をへて第四艦隊に編入。さらに「卯月」は第23駆逐隊に転出、代艦として「望月」が30駆に編入された。太平洋戦争までの第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、望月)は主に南洋諸島で行動した。 1940年5月に蘭印進駐に備えて第四艦隊の第17戦隊(千歳・神威)、第18戦隊(多摩・常磐)、第5潜水戦隊(由良、第9潜水隊、第13潜水隊、第21潜水隊)、第30駆逐隊(睦月・如月・弥生・望月)がパラオに集結したがこの時の蘭印進駐計画は中止となった。 1941年10月1日、第30駆逐隊司令駆逐艦は「如月」から「睦月」に変更された。
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建造~太平洋戦争開戦まで
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「最上 (重巡洋艦)」の記事における「建造~太平洋戦争開戦まで」の解説
1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母に保有制限がかかった結果、日欧米の加盟各国は制限のない条約型巡洋艦の建造を進めた。日本海軍は旧式艦の軽巡龍田、天龍、球磨、多摩を重巡4隻に置換する計画を進めたが、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議で重巡の保有トン数が制限されたため、主砲を50口径20.3cm連装砲塔から60口径三年式15.5cm3連装砲に変更し、将来的に主砲を換装できる巡洋艦の建造を計画した。これが最上型である。前型の高雄型重巡洋艦に比べて艦橋を小型化し、機関部や61cm三連装魚雷発射管など最新の技術を導入した。同様の経緯および本型に対抗する意味を含め、イギリスはサウサンプトン級軽巡洋艦を、アメリカはブルックリン級軽巡洋艦を建造した。 こうして最上は二等巡洋艦として、呉海軍工廠で1931年(昭和6年)10月27日に起工した。1932年(昭和7年)8月1日、山形・最上川から最上と命名され、艦艇類別等級表の二等巡洋艦に最上型が新設された。 1934年(昭和9年)3月14日に進水したが、2日前に水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、友鶴と同じ藤本喜久雄少将が設計した最上型の工事も急遽中断され確認を行った。1935年(昭和10年)3月20日の公試運転で排水量12,669トン、154,266軸馬力で36ノットを発揮するが、推進器附近の外鈑に亀裂が見つかり砲塔が旋回困難となった。最上型は敷設艦八重山や潜水母艦大鯨等の建造で得た電気溶接の技術を艦全体で採用したが技術的に途上の部分があり、砲塔のリングサポート(リングバルクヘッド)を高角砲甲板に直接溶接した結果、船体の歪みが甲板を伝ってリングサポートを変形させたと判明した。 その後の公試運転では4月10日に66,009馬力で30.868ノット、6月10日に100,403馬力で33.522ノットを記録した。竣工は約2か月遅れて7月28日になり、呉鎮守府籍に編入した。8月10日の公試では128,989馬力で35.036ノットを記録した。竣工後、呉警備戦隊の旗艦を重巡加古と交代で務めた。 最上は第四艦隊に所属したが、9月26日に三陸沖での演習で第四艦隊事件に遭遇しカタパルトに固定していた水上機が大破、前部構造物の垂直鋼板がひずんで第二砲塔が旋回不能となった。このため竣工からわずか2か月で大改修が必要になった。1936年(昭和11年)3月-4月、呉警備戦隊の旗艦を潜水母艦長鯨と交代で務めた。 1939年(昭和14年)、最上は呉海軍工廠で主砲を50口径20.3cm連装砲塔5基に換装する工事に着手した。この工事で性能上は一等巡洋艦(重巡洋艦)になったが、対外的には戦没まで15.5センチ砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)で通した。この換装工事で2番砲塔の砲身が1番砲塔との間に入りきらなくなり、常に軽い仰角をかけることになった。1940年(昭和15年)5月1日、第七戦隊に編入された。1941年(昭和16年)に海南島に進出し、仏印進駐作戦を支援した。
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