カナダ党の抵抗とスコットの処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
「ルイ・リエル」の記事における「カナダ党の抵抗とスコットの処刑」の解説
こうして政治的な領域では目覚しい進展があったものの、カナダ党の臨時政府に反対する計画は継続していた。しかし、2月17日にボールトンやトーマス・スコットらを含む48名がギャリー砦近郊で逮捕されると、カナダ党の企ては挫折に追い込まれた。ボールトンはアンブロワーズ=ディディム・ルピーヌ(Ambroise-Dydime Lepine)の指揮する法廷で裁かれ、臨時政府に対する反逆の咎により死刑を宣告された。後にボールトンは赦免されたが、スコットはこの処置について公衆の面前における侮辱を与えただけにすぎず、メティ側の脆弱さの表れであると解釈した。スコットに対する見張り番たちは何度か彼といさかいを起こした後に、不服従の咎によりスコットに対する再審問を強く求めた。この再審問の結果、臨時政府に対する公然の反抗の罪によりスコットには死刑が宣告された。リエルは再三にわたって減刑を懇願されたが、ドナルド・スミスによればリエルは、「勧めによりボールトンの命を永らえたし、ギャディも救ったから、スコットまでは…」という旨を述べたとされている。スコットは結局3月4日に銃殺刑に処せられた。リエルが処刑を容認した動機については様々な憶測を招いているが、自身の弁明に依れば、カナダ党の構成員達にメティは本気であることを知らしめる必要があると感じたと伝えられている。
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