アーノルド遠征隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
2番目の遠征隊はベネディクト・アーノルドに率いられた。大陸会議はアーノルドが立てたカナダ侵攻計画を大筋で認めたが、アーノルド自身はその実行部隊に組み入れられなかった。すげなくされたと感じたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジに戻り、ジョージ・ワシントンに接近して、ケベックシティを標的とした支援部隊を東方から送る案を提案した。6月のバンカーヒルの戦い以後、ボストンではほとんど戦闘が無い状態だったので、多くの部隊が駐屯任務に飽きてきており、戦闘することを望んでいた事もあって、ワシントンはアーノルドの提案に同意した。ワシントンはアーノルドを大陸軍の大佐に任命し、二人で守備隊を見て回り遠征隊の志願兵を募った。アーノルドは最終的に約1000名の者を選出し、ワシントンはそこにダニエル・モーガンの部隊と他に何人かの狙撃兵を加えた。バージニア植民地やペンシルベニア植民地の荒れ地から来た開拓者達は、包囲戦よりも荒れ地での戦闘に向いているとの考えからだった。 ケベックに向けてケネベック川を遡る行程は20日の間に180マイル(290 km) 進む必要があった。アーノルドの遠征隊は、イギリス軍の指揮官カールトンがモントリオールでスカイラー軍に対抗するのに忙しいため、比較的抵抗もなく進めるものと予測していた。アーノルドはウェスターン砦に先乗り部隊を送り、物資とバトー(平底船)を用意させた。遠征隊は海を渡ってウェスターン砦まで5日で到着し、物資をまとめ船を準備した。 ガーディナーストンのコルバーン造船所で3日間滞在した。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請に応えて15日間でバトーを造り上げていたが、このバトーは乾燥した材木が得られないために、切り出したばかりの松材で造られていた。部隊は9月25日にウェスターン砦を発した。その先は、ケネベック川を遡り、またショーディエール川を下ってケベックに至ることが予定されていた。しかし用意されたバトーはオールで漕ぐことができず、竿をさして進むやり方だったため予定に狂いが生じることとなった。コルバーンは軍隊に同行し、バトーの修繕を繰り返したが、川を遡りまた流れの速いショーディエール川を下る過程で火薬など多くの物資と数人の人命が失われた上、分水界付近は湿地の多い湖沼と水路の集まりであり、雨や嵐が追い打ちを掛けた。この結果ロジャー・エノス中佐の部隊300名が、その物資と共に退却した。遠征隊が持って行った地図はイギリス軍が将来の敵を欺くために出版した不正確なものだった。実際に予定された旅程は180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果、物資が枯渇してしまい隊員達は、連れて行った犬・靴・弾薬箱・皮・苔・樹皮などを食べざるをえなかった。 遠征隊は11月6日にセントローレンス川の南岸に到着したが、その時点で1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。彼らは400マイル (640 km) 近い道なき道を踏破してきていた。しかし、この時点においてもアーノルドは町を奪取できると考えた。イギリス軍守備兵は、アレン・マクリーン中佐以下の正規軍約100名と、数百の装備が貧弱な民兵であり、大陸軍が正確な射撃で民兵を蹴散らしてしまえば、正規軍の数で大陸軍が優位に立てるからだった。11月14日、エイブラハム平原に着いた時に、アーノルドは白旗を掲げた交渉役を送ってイギリス軍の降伏を要求したが受け入れられなかった。大陸軍は大砲も無く、ほとんど戦闘には適していないまま、防御を固めた町に向かい合った。アーノルドは市内からの出撃が計画されていることを耳にし、最近モントリオール市を占領したばかりのモントゴメリー軍を待つ為に、11月19日にポイント・オ・トランブルまで後退した。アーノルドが上流に向かう間に、カールトンが川伝いにケベック市に戻った。 12月2日、モントゴメリーがモントリオールから川を下り、500名の部隊とイギリス軍から捕獲した物資と冬の衣類を持ってきた。この2つの部隊は合流し、改めて町を攻撃する作戦が練られた。3日後、大陸軍は再びエイブラハム平原に立ち、ケベック市包囲を始めた。
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