アーノルド隊の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 22:48 UTC 版)
「ケベックの戦い (1775年)」の記事における「アーノルド隊の攻撃」の解説
モントゴメリー隊が前進している時に、アーノルドはその主力をローワータウンの北端、ソルト・オ・マテローにあるバリケードに向かって進ませた。部隊は外側の門を抜けたが、イギリス軍の砲台の幾つかには発見されないでいた。しかし、前衛隊がパレス門周辺に進むと、頭上にある市の防壁から激しい銃火が打ち下ろされた。防壁が高くてこの銃火に反撃することは不可能であったので、アーノルドは兵士達に走っての前進を命じた。部隊は狭い通りを進み、バリケードに近付いたときに再び激しい銃火に曝された。アーノルドはそのバリケードを占領するために兵士達を編成しているときに踝に銃弾を受け、その部隊の指揮をダニエル・モーガンに引き継いだ後に、後方に搬送された。モーガンの指揮下に入った部隊はバリケードを占領したが、通りが狭く曲がりくねっているためにそれ以上の前進は難しかった。さらに雪のために火薬が湿っておりマスケット銃を使えなかった。モーガン隊は火薬を乾かして再武装するために幾つかの建物に潜り込んだが、さらに増した銃火の下に曝されることになった。カールトンは、北側の門への攻撃が陽動攻撃であることを理解し、その部隊をローワータウンに集中させた。パレス門から出撃した500名のイギリス軍が最初のバリケードを取り返したことで、モーガン隊は市内に閉じ込められた。モーガン隊は撤退する道も無く、激しい銃火に曝されたままだったので降伏した。戦闘は午前10時には終わった。 これは大陸軍が味わった初の敗北だった。カールトンはアメリカ兵の30名が戦死、431名を捕虜に取ったと報告した。これにはアーノルド隊の約3分の2を含んでいた。また逃亡しようとした「多くの者が川で死んだ」とも記していた。アラン・マクリーンは翌年5月の雪解け時に20名の遺体を回収したと報告した。アーノルドは約400名が不明または捕虜になったと報告しており、大陸会議に提出した公式報告書では60名が戦死、300名が捕虜とされていた。イギリス軍の損失は比較的少なかった。ウィリアム・ハウ将軍に宛てたカールトンの最初の報告書では死傷者が5名のみとされていたが、別の目撃証言ではその数が50名になっていた。カールトンの公式報告書では5名が戦死、14名が負傷となっていた。 モントゴメリー将軍の遺体は1776年の元日にイギリス軍によって回収され、クラマエ副知事の手によって1月4日に簡単な軍葬の礼が行われた。遺骸は1818年にニューヨークに戻された。
※この「アーノルド隊の攻撃」の解説は、「ケベックの戦い (1775年)」の解説の一部です。
「アーノルド隊の攻撃」を含む「ケベックの戦い (1775年)」の記事については、「ケベックの戦い (1775年)」の概要を参照ください。
- アーノルド隊の攻撃のページへのリンク