アーノルド隊の到着
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「ケベックの戦い (1775年)」の記事における「アーノルド隊の到着」の解説
アーノルドがその遠征隊に選んだ兵士はボストン包囲戦に参加していたニューイングランドの諸中隊から志願兵を募ったものだった。この遠征のために2個大隊に編成され、3つめの大隊としてダニエル・モーガン中佐の指揮下にペンシルベニアとバージニア出身のライフル銃狙撃兵が組み込まれた。メインの荒野を抜ける道は長く困難さを伴うものだった。湿度が高く寒冷であり、アーノルドやワシントンが予想したよりも時間が掛かった。悪天候や輸送用のボートが壊れたために遠征隊の食料の大半がだめになり、当初1,100名いた兵士のうち500名は途中で死ぬか、戻った。戻った者の中でニューイングランド大隊の者が残っていた食料の多くを持ち去ってしまった。遠征を続行した者達は11月初めにフランス系カナダ人の開拓地に到着した時までに飢えつつあった。11月9日、ボストンからケベックまで行軍して残ったアーノルド隊約600名が、セントローレンス川を挟んでケベック市の対岸にあるポイントレビに到着した。アーノルドはその部隊の状態が悪かったにも拘わらず、直ぐに川を渡るための船を集め始めた。11月10日の夜に準備を進めたが、嵐のためにそれから3日間は遅れた。川の対岸に上陸するとケベック市の壁からは約1.5マイル (2.4 km) のアブラハム平原に部隊を移動させた。 ケベック市の壁に近付いている部隊の装備は甚だしく弱かった。アーノルド隊には大砲が無く、兵士は1人あたり5発の実包しか持っておらず、100挺以上のマスケット銃は使い物にならず、兵士の服装はボロ同然になっていた。勢力で1対2と劣勢であったにも拘わらず、アーノルドはケベック市の降伏を要求した。アーノルドが2度送った交渉使節もイギリス軍の大砲の返礼を受け、その要求が拒否されたことを示した。アーノルドは武力でケベック市を占領できないと判断したので、市の西側を封鎖した。11月18日、アーノルド隊はイギリス軍が800名の勢力で攻撃を掛けてくるという噂を耳にした。アーノルド隊は作戦会議を開いて、封鎖は続けられないと判断し、モントリオールを占領したばかりのモントゴメリー隊が到着するのを待つために、20マイル (32 km) 上流のポワント・オ・トランブル(アスペンポイント)まで部隊の移動を始めた。
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