造船業界の救済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
第1次オイルショックのあと石油の需要が激減し、世界的にタンカーを建造する船主がぱったり途絶えた。造船の設備が余ってしまい、遊ばせておくよりましだと造船各社は1977年(昭和52年)秋になると値引き競争を始めた。土光敏夫社長の石川島播磨重工業さえ赤字をかこい、大手造船の一つや二つは潰れてしまうのではといわれた。栄光に輝く日本の造船業界が壊滅してしまうと危惧した運輸省が、佐世保重工の救済を手掛けていた「海運造船合理化審議会」の永野に不況対策の諮問をしてきた。永野は日本の造船業界を立て直すには、余った設備を国が買い上げて、需要を調整するより手はないと提案し、これを受け中村大造運輸事務次官と謝敷宗登船舶局長が知恵を絞り「特定船舶製造業安定事業協会」という買い上げ機関が1978年(昭和53年)12月に、政府が10億円、民間が10億5000万円を出資し設立された。1979年(昭和54年)4月から、函館どつくが買い上げ適用第一号となり、一年間で全国9ヶ所の造船所の設備や土地を368億円で買い取った。
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