白藤江の戦いとは? わかりやすく解説

白藤江の戦い

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白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい)は、現在のベトナム白藤江ベトナム語版中国語版ドイツ語版付近において行われた戦い。




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白藤江の戦い

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白藤江の戦い (1288年)」の記事における「白藤江の戦い」の解説

1288年1月末、軍隊3つ分けて進軍したトガン昇龍占領したが、すでに都城住民朝廷の「清野」策(焦土作戦)を実行していて、もぬけの殻となっていた。元軍は陳朝抗戦勢力全滅させることができず、次第守勢に立たされることになる。危機的な形勢に立たされたと判断したトガンは、萬劫に兵を引き、そこから水路陸路二手分かれて本国退却することを決めた。 元軍を全滅させ、国を解放する機会とらえた仁宗陳国峻反撃決断した陳国峻白藤江(ベトナム語版、中国語版)の潮位の上下を日々調べさせ、川底打ち伏兵配した1288年4月初めウマル指揮する船団は、騎兵護衛伴いつつ白藤江を遡上した。戦船打ち込んだ地点差し掛かると、陳軍の軽舟出撃し、すぐに負け装って後退した懸命に追撃した元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だったとされている。元軍の船団慌てて退却したが、干潮水位が下がり顕わになった川底退路阻まれ多くの船が壊れて沈没する至った。さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し船団炎上させたといわれる生き残った兵士川岸へと逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃受けた。元軍の水兵全滅しウマル生け捕りにされた。 トガン指揮した部隊萬劫より諒山方向逃走し陳朝軍の追撃を受けつつ広西逃げ帰った

※この「白藤江の戦い」の解説は、「白藤江の戦い (1288年)」の解説の一部です。
「白藤江の戦い」を含む「白藤江の戦い (1288年)」の記事については、「白藤江の戦い (1288年)」の概要を参照ください。

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