白藤江の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 16:44 UTC 版)
白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい)は、現在のベトナムの白藤江付近において行われた戦い。
- 呉朝 と 南漢による938年の戦い - 白藤江の戦い (938年)
- 前黎朝 と 北宋による981年の戦い - 白藤江の戦い (981年)
- 陳朝 と 元による1288年の戦い - 白藤江の戦い (1288年)
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白藤江の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 14:11 UTC 版)
「白藤江の戦い (1288年)」の記事における「白藤江の戦い」の解説
1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍したトガンは昇龍を占領したが、すでに都城の住民が朝廷の「清野」策(焦土作戦)を実行していて、もぬけの殻となっていた。元軍は陳朝の抗戦勢力を全滅させることができず、次第に守勢に立たされることになる。危機的な形勢に立たされたと判断したトガンは、萬劫に兵を引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。 元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。陳国峻は白藤江(ベトナム語版、中国語版)の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。 1288年4月初め、ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退した。懸命に追撃した元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だったとされている。元軍の船団は慌てて退却したが、干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没するに至った。さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させたといわれる。生き残った兵士は川岸へと逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受けた。元軍の水兵は全滅し、ウマルは生け捕りにされた。 トガンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰った。
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