後年における言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/04 02:40 UTC 版)
1638年、黎朝(後黎朝)から明への正使として江文明(中国語版)が派遣され、北京で崇禎帝に謁見した。このとき崇禎帝が「銅柱至今苔已緑(銅柱は今や苔むし既に緑色だ)」と問うたのに対し、江文明は「藤江自古血猶紅(白藤江は昔から血が流れ今なお紅い)」と応じた。これは皇帝が、馬援銅柱に象徴されるベトナムに対する中国の支配は古くからの確固たるものだと述べたのに対して、両者の境をなす白藤江(ベトナム語版、中国語版)では度々衝突が起きて血が流れてきた(白藤江の戦い)ことを踏まえて応じたものであった。一説には皇后がこの応答に激怒し、また別の説では皇帝自身がこの応答に激怒し、江文明は処刑されたという。
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