後年と結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 06:12 UTC 版)
「ダウマンタス (プスコフ公)」の記事における「後年と結果」の解説
1270年にヤロスラフは再びプスコフの内政に干渉して、ダウマンタスに代わる自身の傀儡を擁立しようと試みる。プスコフ人はヤロスラフの計画を放棄させるためにダウマンタスをプスコフ公の地位に留まらせ、自らの立場を強化させるためにダウマンタスはドミトリーのもう1人の娘マリアと結婚した。1282年に義父がウラジーミルからコポリエ(英語版)に追われるとラドガに出撃して、ノヴゴロド人からドミトリーの財産を奪還してコポリエに移送した。その後17年の間、ダウマンタスの名は年代記から姿を消す。 1299年にリヴォニア騎士団は突如北西ルーシに侵攻してプスコフを包囲した。騎士団を放逐はしたものの、ダウマンタスは不慮の病にかかって死去し、その遺体は息子と思われるダヴィド(David of Hrodna)によって保持された。ダウマンタスの遺体は至聖三者大聖堂で埋葬され、大聖堂では彼の剣と遺品が20世紀まで展示された。 『プスコフ年代記』によれば、ダヴモントほど市民に愛された統治者はおらず、市民はとりわけその軍事的才能と賢明さを褒め称えた。後にロシア正教会はダウマンタスを列聖し、ダウマンタスはプスコフ公フセヴォロド・ムスチスラヴィチと並ぶプスコフの守護聖人となった。ダウマンタスによって建設された要塞のようなプスコフの街並みは「ダヴモントの街」として知られるようになった。1574年には、教会に列聖されたダヴモント=ティモフェイへの追悼式がプスコフで執り行われた。 1990年代にはロシアの作家セルゲイ・カルティンにより、ダウマンタスの生涯と「弱小のリトアニアの貴族」からプスコフ公への立身を書いた小説『オオカミの時』(Hour of the Wolf)が発表された。
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