後年における評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 05:58 UTC 版)
ヴィスワ作戦の記憶は複雑で、しばしば困難を抱え込んだ、20世紀のウクライナとポーランドの関係に残された深い傷跡のひとつである。これと並ぶのは、第二次世界大戦中にウクライナ蜂起軍(UPA)が行ったヴォルヒニア(ヴォルィーニ: ウクライナ語: Волинь)におけるポーランド人の大虐殺(en:massacres of Poles in Volhynia)であるが、これも、1918年から1919年のガリツィアにおけるポーランド・ウクライナ戦争の結果、また、その後ポーランドとソ連の間に締結されたリガ条約で両国によるウクライナの分割が行われた結果、両大戦間期のポーランド領時代にウクライナ人への弾圧が行われたことを踏まえた報復であった。 ポーランドでよく読まれている小説などにおけるヴィスワ作戦の取り上げ方は、しばしばウクライナ人を粗野で敵対的な存在として描いており、ポーランド人の間にウクライナ人への反感を生じさせているという面がある。しかし、1980年代以降は変化が生じ始め、ポーランドの出版物の中にもヴィスワ作戦を率直かつ客観的に議論するものが増えてきた。とはいえ、ポーランドで広まっている見解はまだ変わったとはいえず、ヴィスワ作戦に関する事件などを、第二次世界大戦中にウクライナ人によって繰り返されたポーランド人への残虐行為と結びつけたり、比較したりすることは続けられている。 1990年8月3日、ポーランド共和国上院は、戦後のポーランド政府によるヴィスワ作戦に対する非難決議を採択した。これに応じて、ウクライナ最高議会は、ポーランド共和国上院の決議を、ポーランドにおけるウクライナ人に対する不正義の是正に向けた真摯な一歩であると認める、とする声明を採択した。この決議の中でウクライナ最高議会は、スターリン主義政権がポーランド人に対して行った犯罪行為を非難した。 2002年4月18日、ポーランド南東部ポトカルパチェ県のクラシチン(ポーランド語版、英語版)で、ポーランド大統領アレクサンデル・クファシニェフスキはヴィスワ作戦について遺憾の意を表明した。大統領は、この作戦を、共産主義政権当局によるウクライナ人への迫害の象徴であったと述べた。国家記銘院(IPN)と、ヴィスワ作戦についての会議の参加者へ宛てたの書簡の中で、大統領は「共和国を代表し、私は、この作戦の犠牲となった全ての方々に遺憾の意を表するものであります」と記し、この作戦をいかなる形であれ、それ以前にヴォルヒニアで起きた諸々の事件と結びつける考え方を、公に拒絶して、次のように述べた。「長年にわたって、ヴィスワ作戦は、東方においてUPA勢力によって1943年から1944年にかけて引き起こされたポーランド人たちの殺害に対する報復であった、と信じられていました。このような認識は誤っており、受け入れることはできません。ヴィスワ作戦は、非難されなければならないのです。」 2007年、ポーランドのレフ・カチンスキ大統領とウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領は、ヴィスワ作戦を人権を侵すものであったと非難した。ユシチェンコ大統領はさらに、この作戦は、「全体主義的共産主義政権」が執行し、責任を負うものであった、と指摘した。
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