馬援銅柱とは? わかりやすく解説

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馬援銅柱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/04 02:40 UTC 版)

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馬援銅柱(ばえんどうちゅう、ベトナム語: Cột đồng Mã Viện)は、西暦43年に、馬援が、ハイ・バ・チュンの反乱を平定した後に、交趾郡(後のベトナム北部)に設立したとされる銅柱。

伝承

馬援銅柱への言及は、の時代に成立した『広州記』に初めて記載された。西暦43年馬援徴姉妹(チュン姉妹)が起こしたハイ・バ・チュンの反乱を平定し、反乱の残党であった都羊を追撃して居風県にまで至った。都羊は投降し、馬援は2本の銅柱を建て、ここが漢(後漢)の最南端の地であることを標示した[1]

交趾人(ベトナム人)たちが再び反乱を起こし、銅柱を壊そうとするかもしれないと伝え聞いた馬援は、銅柱を建てる際に「銅柱が折れるようなことがあれば、交趾は滅ぶ」と天に祈った。以降、交趾人は銅柱が折れることを恐れ、柱が折れないよう柱の周りに石積みをするようになり、いつしか二つの丘ができてしまった[2][3]

隋書』の記載によれば、劉方林邑の討伐のために遠征した際には、軍勢が馬援銅柱を通過したという。代の元和年間には、安南都護の馬総が、新たに2本の銅柱を立て直しという。

所在地をめぐる諸説

越南(ベトナム)において南漢が独立すると、馬援銅柱についての記述は、歴史書から消えていった。1272年蒙越戦争中国語版の休戦が結ばれた際、の世祖(クビライ)は越南に人を派遣し、馬援銅柱の位置を探させた。しかし、大越陳朝皇帝陳聖宗からの使いは、「銅柱は埋没して多年が経っており、どこにあるかは分からず、探し出せません。この件は分からないままということで終わりにします(銅柱歳久湮沒,不知在何処,無法找回。此事最終不了了之)」と述べたという[4]

馬援銅柱は現存していないが、6世紀はじめに成立した北魏酈道元の著作『水経注』には、それが象林県中国語版の南部にあったと述べており[5]、また、15世紀前半に成立した黎崱中国語版の『安南志略中国語版』は欽州の古洞上にあるとしており、17世紀後半に成立した『大越史記全書』もこの欽州古洞説に沿った説明をしているが[2]19世紀のベトナム側の文献である『欽定越史通鑑綱目中国語版』は富安省(フーイエン省)に所在していたとしている。

なお、阮朝高春育中国語版が編纂した『大南輿誌要編』の中では、富安省の域内に銅柱の遺跡がないことを根拠として、馬援が銅柱を建てたという話は史実ではないとしている。ベトナムの歴史学者、ダオ・ズイ・アイン(陶維英)は、現代のゲアン省のヌイタイン(Núi Thành / 𡶀成)に馬援銅柱があったとしている。

後年における言及

1638年黎朝(後黎朝)からへの正使として江文明中国語版が派遣され、北京崇禎帝に謁見した[6]。このとき崇禎帝が「銅柱至今苔已緑(銅柱は今や苔むし既に緑色だ)」と問うたのに対し、江文明は「藤江自古血猶紅(白藤江は昔から血が流れ今なお紅い)」と応じた[7]。これは皇帝が、馬援銅柱に象徴されるベトナムに対する中国の支配は古くからの確固たるものだと述べたのに対して、両者の境をなす白藤江ベトナム語版中国語版では度々衝突が起きて血が流れてきた(白藤江の戦い)ことを踏まえて応じたものであった。一説には皇后がこの応答に激怒し[8][9]、また別の説では皇帝自身がこの応答に激怒し、江文明は処刑されたという[7]

参考文献

  1. ^ 《後漢書·卷二十四·馬援列伝》:「援将楼船大小二千余艘,戦士二万余人,進撃九真賊徴側余党都羊等,自無功至居風,斬獲五千余人,嶺南悉平。唐李賢注引《広州記》曰:『援到交阯,立銅柱,為漢之極界也。』」
  2. ^ a b 《大越史記全書·外紀卷之三·屬東漢紀》:「〔馬援〕乃立銅柱為漢極界(銅柱相伝在欽州古洞上。援有誓云:「銅柱折,交州滅。」我毎以石培之,遂成丘陵,恐其折也。唐馬総又建二銅柱於漢,以為伏波之裔,今未詳所在。左右二江合有其一)。」
  3. ^ 陳仲金,《越南史略·第一卷·第二部分·第三章
  4. ^ 陳仲金,《越南史略·第一卷·第三部分·第四章
  5. ^ 《水経注·林邑記》:「建武十九年,馬援樹両銅柱于象林南界,与西屠国分漢之南疆也。土人以其流寓,号曰馬流,世称漢子孫也。」
  6. ^ 《榮郡公江探花文忠先生行状》誤作明熹宗
  7. ^ a b 知ろうベトナム! ドゥオンラム(唐霖)村 先祖の祠堂”. ハノイ歴史研究会. 2018年11月21日閲覧。
  8. ^ 第四代祖探花江相公
  9. ^ 《榮郡公江探花文忠先生行状》則称崇禎帝聴後大怒,下令将江文明“刳之”,同時認為江文明有気節,令使臣携棺回国。

関連項目



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