馬摠
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馬 摠(ば そう、生年不詳 - 823年)は、唐代の官僚。字は会元。本貫は京兆府興平県[1][2]。
経歴
吉州刺史の馬侅の子として生まれた。幼くして父を失い、貧苦の中で学問を好んだ。性格は剛直で、みだりに交遊しなかった。貞元15年(799年)、姚南仲が滑州に駐屯すると、馬摠は召し出されて従事となった。姚南仲は監軍の薛盈珍と合わず、薛盈珍の誣告を受けて罷免されると、馬摠も連座して泉州別駕に左遷された。福建観察使の柳冕が馬摠を殺そうとしたが、従事の穆賛が弁護して馬摠の無罪を主張したため、馬摠は死を免れた。のちに恩王傅に転じた[1][2]。
元和元年(806年)、馬摠は虔州刺史に転じた。元和4年(809年)、安南都護・兼御史中丞・邕管経略使をつとめた。馬摠は後漢の馬援が銅柱を立てたところに、銅1500斤を使って新たに2柱を立てて、唐の功績を刻ませた[3][4]。
元和8年(813年)、馬摠は桂州刺史・桂管経略観察使に転じた。入朝して刑部侍郎となった。裴度が淮西宣慰使となると、馬摠は制置副使をつとめた。元和12年(817年)、呉元済が処刑されると、馬摠は裴度の命で蔡州に留められ、知彰義軍留後をつとめた。ほどなく検校工部尚書・蔡州刺史・兼御史大夫・淮西節度使をつとめた[5][6]。
元和13年(818年)、馬摠は許州刺史・忠武軍節度・陳許溵等州観察処置等使に転じた。元和14年(819年)、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使となった[5][6]。
馬摠は検校刑部尚書・鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮等州観察等使に転じた。長慶2年(822年)、検校尚書左僕射を加えられ、入朝して戸部尚書となった。長慶3年(823年)、死去した。尚書右僕射の位を追贈された。諡は懿といった。著書に『奏議集』・『年暦』・『通暦』・『子鈔』などがあり、当時に通行した[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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