白藤江の戦い (981年)とは? わかりやすく解説

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白藤江の戦い (981年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 08:38 UTC 版)

白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、ベトナム語Trận Bạch Đằng / 陣白藤)は、981年ベトナムで行われた、前黎朝大越ベトナム)軍と北宋軍との戦いである。


  1. ^ 『続資治通鑑長編』巻21, 太平興國五年条「秋七月丁未、以仁寶為交州路水陸轉運使、蘭州團練使孫全興、八作使郝守濬、鞍轡庫使陳欽祚、左監門衛將軍崔亮為邕州路兵馬都部署、寧州刺史劉澄、軍器庫副使賈湜、供奉官閤門祗候王僎為廉州路兵馬都部署、水陸並進討」
  2. ^ 『宋史』巻488, 交趾伝「[太平興國]六年春、又破賊于白藤江口、斬首千餘級、獲戰艦二百艘、甲冑萬計。轉運使侯仁寶率前軍先進、全興等頓兵花歩七十日以候澄、仁寶累促之、不進。及澄至、並軍由水路至多羅村、不遇賊、復擅回花歩。桓詐降以誘仁寶、遂爲所害。轉運使許仲宣馳奏其事、遂班師。上遣使就劾澄、湜、僎、澄尋病死、戮湜等邕州市。全興至闕、亦下吏誅、餘抵罪有差。仁寶贈工部侍郎」
  3. ^ 『大越史記全書』本紀巻之一 黎紀 大行皇帝 辛巳二年春三月条「侯仁寶、孫全興至諒山、陳欽祚至西結、劉澄至白藤江。帝自將禦之、使士卒植樁捍江、宋兵退、復至支陵江。帝令士卒詐降、以誘仁寶、因擒斬之。欽祚等聞水軍敗、引兵還。帝出諸將撃之、欽祚軍大敗、死者太半、屍填原野、擒其將郭君辨、趙奉勳歸華閭」


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