レシツァ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/06 22:41 UTC 版)
レシツァ Reșița ![]() |
|||
---|---|---|---|
![]() |
|||
|
|||
位置 | |||
![]() レシツァの位置 |
|||
座標 : 北緯45度18分 東経21度53分 / 北緯45.300度 東経21.883度 | |||
行政 | |||
国 | ![]() |
||
県 | カラシュ=セヴェリン県 | ||
市 | レシツァ | ||
人口 | |||
人口 | (2011年現在) | ||
市域 | 65,509人 | ||
その他 | |||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||
公式ウェブサイト : http://www.primaria-resita.ro |
レシツァ (ルーマニア語:Reșița)は、ルーマニア西部、バナト地方のカラシュ=セヴェリン県の都市で県都。
歴史
レシツァは、15世紀の'Rechyoka','Rechycha'という名前が語源で、考古学的調査により、新石器時代、ダキア時代、ローマ時代の居住跡が発見されている。1673年には、'Reszinitza'の名前で記述され、住民はティミショアラに税を納めていた。1717年の徴兵令には、'Retziza'の名前で記述されている。1771年7月3日、この地域において金属加工の重要な拠点となった。'Reșița Română'や'Reșița Montană'といった近郊の村の近くに工場が建てられ、レシツァの産業が興った。'Reșița Montană'には、最初ルーマニア人が住み、1776年にドイツ人70家族が住みついた。1880年から1941年の間は、ドイツ系住民が多かった。1941年において、ドイツ系住民が12,096人、ルーマニア人が9,453人、ハンガリー系が1,861人であった。1910年から1925年まで、レシツァは田舎のエリアだったが、1925年に、産業の発展に伴い、町 (town) となった。1968年に基礎自治体となった。1989年以降、レシツァの産業はその重要性を失い、ルーマニア経済とともに経済は後退した。1989年に110,000だった人口も減少し、2006年には86,000人となった。共産主義崩壊後、レシツァの鉄鋼業はアメリカ人投資家に買われた。
外部リンク
レシツァ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 10:05 UTC 版)
「ドルトムント市電GT8形電車」の記事における「レシツァ」の解説
ルーマニアの都市・レシツァの路面電車(レシツァ市電(ドイツ語版))には1996年と2000年に3次車(1969年製)および4次車(1974年製)の合計21両が譲渡されたが、2011年に路線自体が廃止となり、車両は全車解体された。
※この「レシツァ」の解説は、「ドルトムント市電GT8形電車」の解説の一部です。
「レシツァ」を含む「ドルトムント市電GT8形電車」の記事については、「ドルトムント市電GT8形電車」の概要を参照ください。
- レシツァのページへのリンク