MI作戦の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:10 UTC 版)
詳細は「MI作戦」を参照 太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米戦に対しては、アメリカ艦隊が日本近海に進出してきたところで艦隊決戦を行う方針を考えていた。しかし連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将は以前よりこれに疑問を持ち、対米戦になったら積極的な攻勢作戦をとるべきだと考えていた。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の回想によれば、山本は1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べていたという。これは、日本が日本近海の艦隊決戦を望んだところで、アメリカ軍は時期・方面などを自主的に決めて攻撃することができるのだから無意味であり、勝つには短期戦、リスクを承知の上での積極的攻勢しかなく、早期に敵の主力を叩き、相手国の戦意を喪失させようとの判断からであった。実際、アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で主力の戦艦部隊を行動不能に陥れられたものの、無傷であった機動部隊による一撃離脱攻撃を各方面で繰り返し、哨戒でカバーしきれない日本軍を悩ませた。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は日本近海での艦隊決戦が困難であることに気付かざるを得なかった。 詳細は「第二段作戦」を参照 日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していた。インド洋作戦が実施され、セイロン沖海戦で英国海軍に勝利したものの、インド洋の英領セイロン島を攻略する作戦案が採用されなかった。このため、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかったが、連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ諸島攻略を見据えた作戦計画を立案した。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、同盟国ナチス・ドイツ支援を構想していたという意見もある。 ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた。軍令部と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部はアメリカとオーストラリア(豪州)のシーレーンを断ち切る米豪遮断を企図して、フィジー諸島方面の攻略を計画していた。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。伊藤次長はこれを踏まえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラック基地に集合、米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという。 詳細は「AL作戦」を参照 さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を抑えるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母の日本本土近接を一層困難にすることができると判断。そのためのAL作戦実施を連合艦隊に諮り、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、ソビエト連邦領シベリアにアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時、アメリカが大型爆撃機を開発したとの情報があった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が東京空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊も同意して第二段作戦の全体像が固まった。軍令部第一部長福留繁によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という。 1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった。
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