ラバウル空襲で沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 17:05 UTC 版)
「涼波 (駆逐艦)」の記事における「ラバウル空襲で沈没」の解説
「ラバウル空襲」および「ブーゲンビル島沖航空戦」も参照 11月5日、大型空母サラトガと軽空母プリンストンを基幹とする第38任務部隊は、ラバウルに空襲を敢行した。同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの遊撃部隊は、大打撃を受けた。鳥海と涼波は日章丸救援作業を終えてラバウルに向かう途中であったが、空襲を避けるためトラックに引き返すよう命じられた。鳥海と涼波はトラックに帰投する。第二水雷戦隊と第十戦隊および機関部に深刻な損傷をうけた摩耶をのぞき、ほかの重巡も順次トラック泊地へもどった。涼波は間もなくトラック泊地を出発、11月9日ラバウルに到着した。南東方面部隊遊撃部隊と第三襲撃部隊は解消され、二水戦(能代、大波、長波、巻波、早波、涼波、藤波)で第一襲撃部隊(1SYB)が再編された。 この頃、11月5日の空襲に満足した南太平洋軍司令官ハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請していた。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務群(司令官アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した。11月11日早朝、アメリカ軍機動部隊による第2回目のラバウル空襲が行われた。第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務群は同島南方から、挟み撃ちの格好で攻撃隊を発進させた。シャーマン隊は悪天候のため失敗したが、大型空母エセックス 、バンカーヒル 、軽空母インディペンデンスを基幹とする第50.3任務群はラバウル在泊艦艇に攻撃を加える。またソロモン諸島基地より発進したB-24型爆撃機も、ラバウルに空襲を敢行した。 これに対し、ラバウルから発進した日本軍偵察機が第50.3任務群を発見、海軍航空隊が攻撃にむかった。ラバウル港や周辺では、第一襲撃部隊(第二水雷戦隊)と第二襲撃部隊(第三水雷戦隊)が待機し、ろ号作戦に備えていた。通報をうけた二水戦はアメリカ軍機動部隊の空襲を予期し、折からのスコールにまぎれてラバウル港外へ脱出しつつあった。駆逐艦五月雨(第27駆逐隊)など、湾内に残っていた艦もいた。 涼波は北水道を通過し、ラバウル湾外に向け移動する。7時5分、タブルブル山(花吹山)方面から来襲した雷撃機を撃墜した。間もなく雷撃機の一隊が涼波を襲撃し、投下された魚雷のうち3本を回避した。だが残る1本が涼波の一番魚雷発射管付近に命中する。爆発により左に傾き、また予備魚雷格納所から火災が発生した。艦橋でも、艦長ふくめ戦死者が出た。さらに急降下爆撃と機銃掃射を受け、爆弾一発が涼波の後部電信室付近に命中した。涼波は艦尾で直接操舵を開始したが、長波と衝突しかけたという。7時21分頃、涼波では予備魚雷格納所からの火災が一番発射管に引火して搭載の魚雷が爆発、船体は両断されて7時22分頃に沈没した。涼波艦長の神山昌雄中佐や水雷長以下多数約100名が夕雲型姉妹艦大波に救助された。 この日のラバウル空襲では、軽巡洋艦阿賀野や駆逐艦長波なども損傷している。 涼波は1944年(昭和19年)1月5日付で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍、第32駆逐隊のそれぞれから除籍された。
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