ラバウル上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 16:11 UTC 版)
1月22日の夜、ラバウル攻略部隊はラバウルに接近して入泊した。1月23日0330、駆逐艦望月はラバウル北西海岸方面に陽動、牽制砲撃をおこなった。天洋丸に乗船中の海軍陸戦隊はクレドナ島に上陸して、0345に掃蕩を完了した。この後、海軍陸戦隊はラバウル上陸戦闘に加わった。夜明け前、日本軍はシンプソン湾に進入、まず第56駆潜隊と第14掃海隊がラバウル湾内の掃討と掃海をおこなった。上陸戦闘は順調に展開したので、攻略部隊指揮官(志摩少将)は巡洋艦や駆逐艦でラバウルやカビエン周辺の掃討をおこなったが、特に会敵しなかった。ラバウル占領後は、駆逐艦に加えて沖島や聖川丸の水上偵察機も陸軍の掃蕩作戦に協力した。 陸軍大佐楠瀬正雄率いる第144連隊を中心とした5000人の部隊がニューブリテン島への上陸を開始した。上陸部隊に対してオーストラリア陸軍は反撃を試み、シンプソン湾、ケラビア湾、ラルアナ岬周辺の砂浜の近くでは激しい戦闘が行われた。連隊長代理桑田伊次郎指揮下の第3大隊、第144歩兵連隊はバルカン浜においてオーストラリア軍第2連隊第22歩兵大隊と民兵から反撃を受けた一方、他の2隊は防衛されていない場所への上陸に成功し、島内部への進撃を開始した。数時間のうちに、ラクナイ飛行場(英語版)は日本軍に押さえられ、スカンランは「己の命を必ずや守れ」と全軍に命を下し、オーストラリア軍兵士と民間人は中隊規模の小集団に分かれ、ジャングルの中に撤退し、南北の海岸に沿って退却した。この時点で、ラバウル攻略戦におけるオーストラリア軍の組織的抵抗は終わった。その後1月23日の戦闘の最中に、オーストラリア軍は2名の士官と26名の下士官を失った。 オーストラリア空軍は撤退作戦を立案し、島内での戦闘の終盤で当初は空軍配下の地上要員を地上戦部隊に転向するよう命じていたが、レルーは彼らを避難させることに変更し、飛行船と一機残っていたハドソンを彼らの避難の為に用いるべきと主張した。その後、オーストラリア軍の兵士達は何週間にも渡って、日本側に捕まらずニューブリテン島内に隠れていたが、「雲雀部隊」はこの状況のようなニューブリテン島内でのゲリラ戦に対する支援の準備が整っていなかった。補給不足から、ゲリラ活動をするオーストラリア軍は疲弊し軍事遂行能力は減退していった。日本軍の哨戒兵は、英語で「諸君らは食料も手に入らず、この島における逃げ道も確保することはできない。降伏しない限り餓死を待つばかりである」と書かれたリーフレットをばらまき、また飛行機から投下して配布した。日本軍の堀井司令官は第3大隊と第144歩兵連隊にガゼル半島の南部を捜索し、オーストラリア軍の残党を確保するように命じた。日本軍は2月9日にニューブリテン島の南岸のガスマタに上陸し、オーストラリア軍の退路を遮断した後、数週間のうちに1000人以上のオーストラリア軍兵士が捕まるか降伏するかを経て捕虜となった。
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