ラバウル航空決戦とは? わかりやすく解説

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ラバウル航空決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:09 UTC 版)

ラバウル航空隊」の記事における「ラバウル航空決戦」の解説

1943年晩秋まで続いたラバウルからの航空作戦は、11月ブーゲンビル島西岸タロキナ連合軍の大航空基地建設されてからはラバウル中心とする南東方面制空権争奪戦変わり1943年12月17日9時から1944年2月末まで2ヶ月間続く「ラバウル航空決戦」が開始した奥宮正武は、1943年末にはラバウル司令部焦燥色濃く数ヶ月前にもっていた快活さ失ってしまったと語っている。 11月14日第二八一海軍航空隊分遣隊ラバウル着任し201空編入12月15日201空消耗により幹部後退決定残存201空搭乗員大半204空転属12月15日ニューブリテン島西南グロスター岬連合軍上陸ラバウル海軍戦闘機隊が爆撃攻撃実施21日陸軍の第68戦隊三式戦九九双軽の戦爆連合ウエワクから海峡渡りマーカス岬(米呼称アラウエ)を攻撃20日ブーゲンビル島北端ブカ水上基地隊が駆逐艦ラバウル東南岸の松島基地後退12月23日 - 27日ニューブリテン島南端ガスマタ連合軍上陸し、それに対し日本戦闘機による爆撃攻撃実施1944年1月前後201空204空253空による邀撃が行われる。連日数百機の敵戦爆連合一日数回波状攻撃実施する1月4日201空サイパン後退した後、邀撃する零戦隊はラバウル飛行場204空トベラ飛行場253空の2隊のみの状態であったが、ラバウル零戦隊の搭乗員たちによってラバウル制空権死守されていた。イギリス発表した航空戦戦略理論 N2乗法則(N square Low)が示す通り少数機で多数機に対抗することが極めて困難なことだった。日本側はセント・ジョージ岬レーダー基地からの警報により敵来襲30前に事前予測し、26航戦所属数十機のラバウル零戦全機一斉離陸を5分で完了高々度待機して邀撃し、来襲する連合軍戦爆連合大編隊との間に大空中戦が展開された。邀撃する零戦隊は、来襲する護衛戦闘機陣をかわして爆撃機編隊先頭突進攻撃して編隊小さく分散させた後で周囲から執拗な攻撃繰り返した。これに対し連合軍各国混成航空隊米軍陸・海海兵隊所属の各航空隊英連邦豪州空軍英連邦ニュージーランド州空軍)は直掩戦闘機隊と爆撃隊の緊密な十字砲火による協同連携防御でこれを阻止したラバウル在地陸海軍高射砲高角砲陣地からの烈しい対空射撃で空一面弾幕覆われた。彼我ともに知略尽く緊迫した連日空中戦闘で、零戦隊の戦果少ない日は6機、多い日は87機、平均20数機以上を報告していた。 1月17日ラバウル上空邀撃戦で撃墜69機を報告し翌日東京上奏御嘉賞される。この戦闘SBD 29機、TBF 18機、および戦闘機F4UF6FP-38 70機、計117機を零戦79機が迎撃損害被弾8機だけで撃墜69機(うち不確実17機)の大勝利報告したものであった。しかし、これは誤認戦果であり戦後照会では米軍被害12であった米軍撃墜32機(うち不確実12機)と誤認報告したが、被撃墜はなかった。 司令部参謀佐薙毅は、ラバウル航空隊来襲する敵機大編隊に毎回大きな損害与えた語っている。ラバウル守備隊毎週連合軍側生搭乗員多く捕虜にしていた。地上基地員たちも爆撃終了後人力加えラバウルトベラ持ち込んだスチームエンジンローラー、英軍鹵獲ブルドーザ整地使い滑走路速やかに修復復旧させた。日本側の戦闘離陸し第1中隊指揮官として邀撃した岩本徹三はこの戦闘飛行場真上遥か高空大型4発機大編隊に第4中隊零戦数機がとりつき一撃でB-24が2機続けて炎上し撃墜された。日本にはラバウル航空戦ニュース動画映像1944年1月17日付)が一本残っている。内地から日映ニュース班が来訪し連合軍日本軍唯一存在するラバウル空戦実写フィルム南海決戦場」邀撃69対0 を撮影した26航戦の邀撃戦では、緊急発進した零戦中隊長小隊長、列機区別なく、先に飛び上がったものを中心に次々と編隊組み集結していった。これは、1943年秋、「ろ号作戦」でラバウル進出した1航戦戦闘機隊の邀撃戦で示された「一斉離陸」が範となり戦訓となっていた。空中戦では敵機より優位をとる必要があり、緊急の邀撃戦では素早く離陸した者が戦果上げやすいため、一斉離陸をし、その様子は先陣争いだった。後に離陸した者が列機となり編隊につく。顔がわからなくても互いによろしく、と編隊組んだ最初に風防ごしに挨拶しておけばよく、階級の上下など後からとやかく言う者はいなかった。狭いトベラ基地移ってからの邀撃戦では列線にならぶ零戦近く待機し早めに離陸した杉野計雄によれば若年搭乗員たちは目をつけた実力者、慕う者の後にすばやくついたという。邀撃戦の編成表事後作成された。

※この「ラバウル航空決戦」の解説は、「ラバウル航空隊」の解説の一部です。
「ラバウル航空決戦」を含む「ラバウル航空隊」の記事については、「ラバウル航空隊」の概要を参照ください。

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