ラバウル航空決戦
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1943年晩秋まで続いたラバウルからの航空作戦は、11月にブーゲンビル島西岸のタロキナに連合軍の大航空基地が建設されてからはラバウルを中心とする南東方面制空権争奪戦に変わり、1943年12月17日9時から1944年2月末まで2ヶ月間続く「ラバウル航空決戦」が開始した。奥宮正武は、1943年末にはラバウル司令部は焦燥の色濃く、数ヶ月前にもっていた快活さを失ってしまったと語っている。 11月14日、第二八一海軍航空隊分遣隊がラバウルに着任し201空へ編入。12月15日、201空の消耗により幹部の後退が決定。残存201空搭乗員の大半は204空へ転属。12月15日、ニューブリテン島西南端グロスター岬に連合軍が上陸。ラバウルの海軍戦闘機隊が爆撃攻撃を実施。21日、陸軍の第68戦隊三式戦と九九双軽の戦爆連合がウエワクから海峡を渡り、マーカス岬(米呼称アラウエ)を攻撃。20日、ブーゲンビル島北端のブカ水上基地隊が駆逐艦でラバウル湾東南岸の松島基地へ後退。12月23日 - 27日、ニューブリテン島南端ガスマタへ連合軍が上陸し、それに対し日本は戦闘機による爆撃攻撃を実施。 1944年1月前後、201空・204空・253空による邀撃戦が行われる。連日数百機の敵戦爆連合が一日に数回の波状攻撃を実施する。1月4日、201空がサイパンに後退した後、邀撃する零戦隊はラバウル東飛行場の204空とトベラ飛行場の253空の2隊のみの状態であったが、ラバウルの零戦隊の搭乗員たちによってラバウルの制空権を死守されていた。イギリスが発表した航空戦の戦略理論 N2乗法則(N square Low)が示す通り、少数機で多数機に対抗することが極めて困難なことだった。日本側はセント・ジョージ岬のレーダー基地からの警報により敵来襲を30分前に事前予測し、26航戦所属の数十機のラバウル零戦隊全機は一斉離陸を5分で完了、高々度で待機して邀撃し、来襲する連合軍戦爆連合大編隊との間に大空中戦が展開された。邀撃する零戦隊は、来襲する護衛戦闘機陣をかわして爆撃機編隊先頭に突進、攻撃して編隊を小さく分散させた後で、周囲から執拗な攻撃を繰り返した。これに対し連合軍各国の混成航空隊(米軍の陸・海・海兵隊所属の各航空隊、英連邦豪州空軍、英連邦ニュージーランド州空軍)は直掩戦闘機隊と爆撃隊の緊密な十字砲火による協同連携防御でこれを阻止した。ラバウル在地の陸海軍高射砲(高角砲)陣地からの烈しい対空射撃で空一面は弾幕で覆われた。彼我ともに知略を尽くす緊迫した連日の空中戦闘で、零戦隊の戦果は少ない日は6機、多い日は87機、平均で20数機以上を報告していた。 1月17日、ラバウル上空邀撃戦で撃墜69機を報告し、翌日東京で上奏、御嘉賞される。この戦闘はSBD 29機、TBF 18機、および戦闘機F4U、F6F、P-38 70機、計117機を零戦計79機が迎撃、損害は被弾8機だけで撃墜69機(うち不確実17機)の大勝利を報告したものであった。しかし、これは誤認戦果であり戦後の照会では米軍の被害は12機であった。米軍も撃墜32機(うち不確実12機)と誤認報告したが、被撃墜はなかった。 司令部参謀佐薙毅は、ラバウルの航空隊が来襲する敵機の大編隊に毎回大きな損害は与えたと語っている。ラバウル守備隊は毎週、連合軍側生存搭乗員を多く捕虜にしていた。地上基地員たちも爆撃終了後は人力に加えラバウルのトベラに持ち込んだスチームエンジンローラー、英軍鹵獲ブルドーザも整地に使い滑走路を速やかに修復、復旧させた。日本側の戦闘で離陸し第1中隊指揮官として邀撃した岩本徹三はこの戦闘で飛行場の真上遥か高空で大型4発機大編隊に第4中隊の零戦数機がとりつき一撃でB-24が2機続けて炎上し撃墜された。日本にはラバウル航空戦のニュース動画映像(1944年1月17日付)が一本残っている。内地から日映ニュース班が来訪し連合軍・日本軍に唯一存在するラバウル空戦の実写フィルム「南海決戦場」邀撃戦 69対0 を撮影した。26航戦の邀撃戦では、緊急発進した零戦は中隊長、小隊長、列機区別なく、先に飛び上がったものを中心に次々と編隊を組み、集結していった。これは、1943年秋、「ろ号作戦」でラバウルに進出した1航戦戦闘機隊の邀撃戦で示された「一斉離陸」が範となり戦訓となっていた。空中戦では敵機より優位をとる必要があり、緊急の邀撃戦では素早く離陸した者が戦果を上げやすいため、一斉離陸をし、その様子は先陣争いだった。後に離陸した者が列機となり編隊につく。顔がわからなくても互いによろしく、と編隊を組んだ最初に風防ごしに挨拶しておけばよく、階級の上下など後からとやかく言う者はいなかった。狭いトベラ基地に移ってからの邀撃戦では列線にならぶ零戦の近くで待機し早めに離陸した。杉野計雄によれば、若年搭乗員たちは目をつけた実力者、慕う者の後にすばやくついたという。邀撃戦の編成表は事後に作成された。
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