駆逐艦秋風虐殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 14:05 UTC 版)
「秋風 (駆逐艦)」の記事における「駆逐艦秋風虐殺事件」の解説
1943年(昭和18年)3月18日、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下で行動中、ニューギニアの戦いにおいて日本軍が進出したニューギニア島東部(東部ニューギニア)から、南東方面における日本軍の中心基地ニューブリテン島ラバウルへ向け、欧米各国などの現地在住民間人を「秋風」にて移送中、秋風艦上において乗員がその全員を処刑した事件。 北東部ニューギニアは古くはドイツ植民地帝国の植民地であり(ドイツ領ニューギニア、第一次世界大戦によるドイツ敗戦以降は同島南東部を領有していたオーストラリアの委任統治領となる)、現地には宣教師や農園主等としてドイツ人ら欧米各国人が入植していた。当時、ラバウル方面の作戦全般を指揮していた南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は、東部ニューギニア・中部ソロモンの防備をかためるため航空基地整備を企図しており、3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令し、4月15日を目標に21ヶ所の陸上基地(新設10)・12ヶ所の水上機基地(新設6)を整備しようとしていた。 被害者の内訳は以下の通り。 カイリルー島の26名(修道士12名、修道女11名、2〜7歳の中国人児童3名) マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名) ほか、少なくとも5名のオランダ人、1名のハンガリー人、1名のアメリカ人 戦後、連合国は本事件を調査。「秋風」が所属していた当時の第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将および、参謀長大西新蔵海軍少将をB級戦犯に指名、1947年(昭和22年)1月に拘束した。事件当時の秋風艦長である佐部鶴吉海軍少佐をふくめ秋風主要士官は1943年(昭和18年)8月2日の秋風大破時に戦死、また「秋風」自体も乗員諸共に戦没(事件当時の秋風乗組員は転勤のため生存者がいる)、裁判の焦点は事件当時の「秋風」所属および命令元となった。 裁判において第二復員省および草鹿任一(当時の南東方面艦隊司令長官)や第八艦隊関係者は事件当時の「秋風」が第八艦隊(三川長官、大西参謀長)の指揮下にあったと主張した。これに対し三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将、南東方面艦隊司令長官)の指揮下、南東方面艦隊の命令を受けて行動していたと反論する(両名の主張が正しかった場合、草鹿任一元中将が秋風事件の戦犯となる)。当時の軍隊区分において、「秋風」は南東方面艦隊/第十一航空艦隊(第八艦隊の上部組織)附属であるため、第八艦隊とは別の命令系統に所属していた。また1943年3月〜4月のラバウル方面は、第81号作戦(ビスマルク海海戦)や『い号作戦』実施のため、連合艦隊、南東方面艦隊(第十一航空艦隊)、第三艦隊、第八艦隊、日本陸軍の指揮系統が複雑に絡み合っていた。 1948年(昭和23年)10月上旬、小口茂秋風機関長や秋風乗組員等が被告側の証人となる。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)は南東方面艦隊の戦時日誌を裁判に提出した。これにより虐殺事件時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将。第十一航空艦隊司令長官兼務)の命令を受けていたことが明らかになる。同年10月18日、三川と大西の2名は起訴却下となった。大西は、冷戦によりアメリカの対日政策がかわり、草鹿が起訴される恐れがなくなったことが、第二復員省による南東方面艦隊の戦時日誌提出につながったと推測している。 軍事評論家の伊藤正徳は著書『連合艦隊の栄光』の中で、以下のようなエピソードを紹介している。アメリカ軍はソロモン諸島における日本軍(航空隊、艦隊)の動向をいち早く察知するため、多数のコースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)を配置して諜報活動を行っていた。沿岸監視員は軍人だけでなく民間人も多く、無線機でアメリカ軍に連絡をとっていた。ソロモン作戦の後期、日本軍は電波探知により諜報網を検挙、スパイとみなしたドイツ人、オーストラリア人、豪州人等、現地人、すくなくとも60名以上を駆逐艦の甲板上で処刑したという。
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