駆逐艦時代
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「ホーヴェイ (駆逐艦)」の記事における「駆逐艦時代」の解説
ホーヴェイはフィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズで1918年8月18日に起工し、1919年3月31日にホーヴェイ少尉の姉妹であるルイーズ・F・カーツ夫人によって進水、艦長スティーヴン・B・マッキニー中佐の指揮下1919年10月2日に就役する。 カリブ海のフロリダ沿岸での整調航海を行ったあと、ホーヴェイはチャンドラー(英語版) (USS Chandler, DD-206) とともにアゾレス諸島やフランスのブレストでステーションシップ任務に就くため、1919年12月19日にロードアイランド州ニューポートを出港する。その後は地中海方面に転じ、1920年7月10日まではダルマチアを拠点としてアドリア海での特別任務に就いた。7月12日にコンスタンティノープルに寄港したあと、いくつかのロシアの港湾でステーションシップとなり、12月17日にポートサイドを発ってフィリピンに向かい、アジア艦隊(英語版)に合流する。アジア艦隊での任務を終えたあと1922年10月2日にサンフランシスコに戻り、1923年2月1日にサンディエゴで予備艦となった。 1930年2月20日、ホーヴェイはサンディエゴにおいて艦長スチュアート・O・クレイグ中佐の指揮下で再就役する。1934年4月9日までサンディエゴとメア・アイランド(英語版)で予備兵のための練習艦任務を務めたあとパナマ運河を東航し、5月31日にニューヨークに到着する。ニューイングランドとフロリダ沿岸部で艦隊演習などに参加したのち、11月9日にサンディエゴに戻った。メア・アイランド海軍造船所でのオーバーホールののち、西海岸、パナマ運河地帯およびハワイ水域での艦隊演習に参加した。このころ、サリヴァン兄弟のうちの長男ジョージ・トーマス・サリヴァンが1937年9月15日から10月10日の間および10月15日から1941年4月22日の間の二度、次男「フランク」フランシス・ヘンリー・サリヴァンが1937年9月15日から1939年3月18日の間および4月22日から1941年5月12日の間の二度、ホーヴェイに乗艦していた。
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駆逐艦時代
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「ディカーソン (駆逐艦)」の記事における「駆逐艦時代」の解説
ディカーソンはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1918年5月25日に起工し、1919年3月12日にJ・S・ディカーソン夫人によって進水、艦長F・V・マクネアー中佐の指揮下1919年9月3日に就役する。 竣工後、ディカーソンは東海岸とカリブ海を中心に行動し、艦隊に加わってバルボア(英語版)、カヤオおよびバルパライソといった南アメリカの諸港を訪問したこともあった。1921年にはハンプトン・ローズにおいてほかの大西洋艦隊の諸艦艇とともにウォレン・ハーディング大統領の巡視を受けた。1921年11月にブルックリン海軍工廠に入渠後、そのまま1922年6月25日に退役した。 8年後の1930年5月1日、ディカーソンは現役に復する。再び東海岸とカリブ海での魚雷発射などの演習に参加し、1932年と1933年から1934年の期間は西海岸での演習に参加するためパナマ運河を往復した。西海岸での演習に参加後は東に戻り、1934年5月31日にブルックリン沖で行われたフランクリン・ルーズベルト大統領による巡視を受けたあと、8月からはノーフォーク海軍造船所でオーバーホールに入った。オーバーホール後は第19予備群に編入。1935年には訓練飛行隊付属となり、練習艦として海軍予備役兵の訓練に供され、チャールストンとフロリダ、カリブ海との間を往復した。 1938年、ディカーソンは大西洋艦隊第10駆逐部隊に配属され、ノーフォークから出港して慣熟訓練を行う新鋭空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) の支援を務め、1939年春にはカリブ海において艦隊とともに上陸演習に参加した。ヨーロッパ情勢の緊迫化とともにポルトガルのリスボンを拠点とする第40戦隊が1939年夏に編制され、ディカーソンも戦隊に加わるためノーフォークを出港。スペイン諸港を回ってカサブランカから脱出してきた難民の支援や、国務省のための特別任務に従事した。任務を終えたあと、1940年7月25日にノーフォークに帰投した。 本国に戻ったディカーソンは1940年10月まで、フロリダ州キーウェストとコネチカット州ニューロンドンで第2潜水戦隊の支援にあたり、以降は第二次世界大戦勃発に伴う中立パトロールのためカリブ海に出動し、1941年10月までその任務にあたった。その間の9月には商船リビー・メインの生存者6名を救助し、真珠湾攻撃によるアメリカの大戦参戦後の1941年12月から1942年1月には、ニューファンドランド島アルゼンチア海軍基地(英語版)を拠点にアイスランド行の輸送船団の護衛に任じる。1942年3月19日、ディカーソンは船団護衛中に不運なトラブルに巻き込まれる。前日の3月18日にディカーソンは、Uボートによって撃沈されたタンカーの乗組員を救助してノーフォークに向かったが、3月19日にバージニア岬(英語版)沖にいたったところで味方の輸送船リベレーターがディカーソンを敵と勘違いして誤射し、ディカーソンは砲弾の命中で艦長J・K・レイボルド少佐を含む3名が死亡、6名が負傷してディカーソンは修理のためノーフォークに急行した。損傷復旧後は8月までノーフォークとキーウェスト、8月から10月にはキーウェストとニューヨーク、10月から1943年1月まではニューヨークとキューバの間において船団護衛にあたった。 1943年の上半期、ディカーソンはカリブ海とジブラルタルおよびアルジェの間でタンカー船団の護衛を行う。その後は護衛空母カード (USS Card, AVG-11) を基幹とする対潜掃討部隊に加わり、7月17日から8月13日の間は北アイルランドのロンドンデリーにてイギリス艦隊との合同演習に参加。演習終了後は高速輸送艦への改装を行うためチャールストンに回航され、8月21日にハルナンバー(英語版)が APD-21 に変更された。
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