オイビ・ゴラリの戦いと堀井支隊長の事故死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 04:12 UTC 版)
「ポートモレスビー作戦」の記事における「オイビ・ゴラリの戦いと堀井支隊長の事故死」の解説
ギルワ河右岸まで撤退の命令ではあったが、堀井少将はココダ周辺の平原を容易に明け渡すことを憂慮し、ココダの後方ゴラリの南部で侵攻阻止を決断した。そして、海岸防衛のためクムシ河を超えて退却していた塚本初雄中佐指揮の歩兵第144連隊の2個大隊(第1大隊と第3大隊)を呼び戻し、オイビの防御に適した高地を占領して防衛線を構築した。スタンレー支隊と交替した歩兵第41連隊の一部小岩井光夫少佐以下16人の後衛部隊はイスラバで小抵抗した後、先の退却指示通り10月31日に到着すべくココダに向かったが、防衛線の構築を知らされるとオイビに向かった。 追撃するオーストラリア軍は、イスラバで二手に別れココダとゴラリの二方向から挟撃する構えをみせた。 11月3日にはオイビ・ゴラリ地区にオーストラリア軍が到達した。退路を断たれた南海支隊は一旦オイビ・ゴラリに立てこもったものの、すぐに撤退を決定した。オイビとゴラリの間にあるルウニ川の一本の吊り橋を巡っては激しい戦いが続き、前進しようとするオーストラリア軍は対岸の日本軍の狙撃兵によって、オイビから後退する日本軍はオーストラリア軍の仕掛け爆弾によってどちらもなかなか橋を渡ることができなかったがオーストラリア軍が川を遡って設置した仮設橋を渡って対岸の日本軍の背後を突いたため決着がついた。11月10日にはオイビ・ゴラリからも撤退しピンガ(西方向)経由でバサブア(ゴナ)に向かった。だが10月15日オーストラリア軍にボーフが占領され、ワイロビから進出してきたオーストラリア軍第25旅団がゴナに達していた。オーストラリア軍はワイロビにあるクムシ河の橋を確保しバサブア、ギルワにも浸透してきており、南海支隊はピンガで激流のクムシ河渡河とゴナへの退却で多数の行方不明者を出し、敵味方がバサブア・ギルワ地区で入り乱れた。撤退の途上南海支隊長堀井少将は11月19日カヌーでクムシ川を下り海路ギルワへ向かったが、突風にあおられてカヌーが転覆し、従卒へ「堀井はここで死んだと伝えてくれ、天皇陛下万歳」と言い残して海中へ没した。この頃から日本軍の部隊は分散してしまい、20日にバサブア(ゴナ)の日本軍は包囲された。
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