バサブア、ブナ守備隊玉砕
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「ポートモレスビー作戦」の記事における「バサブア、ブナ守備隊玉砕」の解説
兵力に劣るにも関わらず、日本軍は粘り強い抵抗を見せた。現地のオーストラリア軍は以下のような電報を送った。 ジャップは死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために我が軍は多くの損害を出しつつあり。いずれの側かが完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈せり オーストラリア軍第16旅団と第25旅団は激しく消耗し、第21旅団と第30旅団が交代とした。航空支援の効果が十分でないと考えた連合軍は、歩兵に対して支援をより密接に与えるため、オーストラリア軍のブレンガン・キャリアを投入した。オーストラリア軍は12月5日に攻勢をかけたが日本軍の反撃によりブレンガン・キャリア部隊は壊滅し攻勢は失敗した。12月9日にバサブアが陥落した。12月15日にやっと現地にM3軽戦車が到着した。 12月の末、ブナの飛行場はついにアメリカ軍とオーストラリア軍に奪取された。わずか十数人になったブナの日本軍守備隊は翌年の1月2日に壊滅した。11月18日上陸の増援部隊を率いた歩兵第144連隊後任連隊長の山本重省大佐と、海軍の横須賀第5特別陸戦隊司令の安田義達大佐は壮烈な戦死を遂げた。米国公刊戦史をして、「世界第一の猛闘 (Toughest Fighting in the World)」と言わしめた。 ブナから奇跡的に生還した日本側の生存者によると、安田義達大佐は数人の司令部要員とともに万歳突撃を仕掛けたものの戦死。山本重省大佐の死は以下のような劇的なものだったという。 (前略)早朝壕を出て、集中射撃して来る敵に向かって、「日本語のわかる者は前に出るように」と叫んだ。すると、この日本語がわかったらしく、敵の射撃がやんで静かになった。山本連隊長は、落ちついた声で敵に話しかけた。「今君達は、勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾丸といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最期を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。万歳。万歳」ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで、敵の一斉射撃が起こり、戦死された。 オーストラリア側の証言によると二人の将校が壕から出てきて、一人は物影へ去った後に自決、もう一人は投降の呼びかけを無視して三度太陽に祈った後、オーストラリア軍部隊と向かい合った。オーストラリア軍将兵が10数えるうちに降伏するように伝えると日章旗を胸に当て、9まで数えたところで「撃て」と叫んだので射殺したとのことである。 日本側指揮官の山県少将は、独立混成第21旅団の一部を率い大発動艇でブナに向かったがアメリカ軍に包囲されたブナの守備隊とは連絡がとれなかった。増援部隊等の守備隊1500人と海軍の陸戦隊400人および非戦闘員中心の設営隊600人のあわせて約2500人のうち、陸軍の180名、海軍の190名がブナを脱出、捕虜となったものが50名程度であり、戦死者は2000人を上回る。
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