日系人の擁護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 22:47 UTC 版)
「ラルフ・ローレンス・カー」の記事における「日系人の擁護」の解説
1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、日本人のみならず、アメリカ国民である日系アメリカ人に対する恐れや嫌悪も広まった。他州から日本人(その多くは米国市民権を拒否され続けている永住者であった)や日系人がコロラド州に移転したが、州知事であったカーは彼らを受け入れた。ルーズベルト大統領が1942年2月19日に外国人隔離を容認する大統領令9066号を発令、日系人の強制退去を正式決定した。3月18日には大統領令9102号によって戦時転住局(英語版)が設置された。西海岸からコロラドなどの内陸の州に日系アメリカ人および永住日本人達が大量に流入した。真珠湾攻撃の3ヶ月後にカーはラジオ演説で次のように語っている。 コロラド州民のみなさん、冷静に賢明な市民として振るまおうではありませんか。 アメリカが人種の坩堝であるという事を思い出してください。アメリカに対する忠誠心を、その人の祖父が生まれた場所で計る事は出来ません。もとをたどれば、我々全てのアメリカ人は国境の向こう側からやってきたのではありませんか。 コロラド州アマチ収容所開設の約2ヶ月前にあたる6月頃に、カーは多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることを述べた書簡を法務省のコロラド代表検察官宛てに送っている。 カーは戦時転住局が西海岸に住む日本人と日系アメリカ人を1942年8月よりコロラド州プロワーズ郡グラナダに近いアマチに強制移住させることになった時も、「西海岸における第五列防止案」として支持した。しかし当時のコロラドの経済、市民リーダーはおろか連邦裁判長も賛成していた「日系人の強制収容所案」には強く反対した。世間の排日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけた。 現在、日本語を話す人達は皆、大変つらい立場にある。我々はアメリカのシステムを守るために、そして国境を越えた同胞関係を維持するために、力を合わせなければならない。(中略)もし我々がこれらの人々(日系人)に人道的親切や理解を与えなかったら、彼らの権利章典の保護を拒否したら、公聴会や不品行の告訴なしに48州のいずれにも住む権利を与えなかったら、我々はアメリカのシステム自体をつぶしていることになる。もし戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る。 3000人の日本人と日系アメリカ人がアマチ収容所に到着したとき、地元の暴徒の群が脅しに現れた。カーは飛行機で現地に飛び、暴力を止めている。この時カーの生涯で最も有名な演説を行っている。 彼ら(日系人)に危害を与えるのなら、私に与えなさい。小さな町で育った私は、人種差別による恥辱や不名誉を知り、それを軽蔑するようになった。なぜならそれ(そのような行為)は、幸せ(な生活)を脅かすものだからだ、あなたの幸せ、あなたの幸せ、そしてあなたの幸せを。(最後の部分は周りを見回して言ったと見られる。) カーは敬意を持って日本人と日系アメリカ人に接し、彼らがアメリカ市民権を失わないよう支援を行った。コロラド州公文書館には、カーが日系人の強制収容所は非人道的でありアメリカ憲法違反であるとして反対する記録が残っている。黄禍論を持つ市民達からの抗議の手紙、カーを賞賛する牧師協会、州による収容所管理に反対する州内の共和党委員会、コロラドに移って働きたいというカリフォルニア州サンタ・アニタ強制集合センターに抑留中の日本人と日系アメリカ人、戦時中で労働力不足のため農場で日系人を雇いたいという地元の市長といった者たちとのやりとりが残されており、彼の一貫した態度がうかがえる。 PBSによると、カーは次のような言葉も残している。 アメリカは地球の四隅、すべての人種や国籍の男性・女性から成る国である。真に、世界のメルティング・ポットである。ここでは、自分の仲間あるいは自分の言葉を話すものが他よりも優れていると考えるような余地はない。アメリカに到着した時に、我々は新しい人間に変わり、思い出や親戚以外のものはすべて(故郷に)置いてきたのだ。我々は新しい愛着、新しい献身、新しい興味を持つ、新しい男性・女性になったのである。 抑留者のアメリカ国籍やアメリカの合法滞在にもかかわらず、強制収容所に入れろという要求に私は共鳴しない。我々の憲法は、何人も公平な公聴会における不品行の証明や告訴がないうちは、自由を奪われることはないと保証している。 一般的に、カーの他人種への寛容さと日系人の基本的権利を保護する言動が、アメリカ合衆国上院という将来展望も含めた彼の政治生命を絶ったと見られている。 カーは、1942年に共和党からの強い要請により上院議員選挙に立候補した。前述の通り、支持されない政策を掲げていたことから、強い逆風にさらされる中での選挙戦だったが、それでも信念を曲げることは無く、投票日の前日である同年11月2日に行った演説の中で、 コロラドのみなさん、私は平和な時も戦争中であっても、合衆国憲法が機能しなければならないという理念を貫きます。もしも、上院議員として働かせてもらえるのであれば、合衆国憲法のもとに政府と個人の権利が守られている状態を保ちつつ、全身全霊をもって戦争を終わらせる策を追求します。それが守られていなければ、戦争に勝利しても何の意味もありません。未来は みなさんにかかっています。 が、民主党のエドウィン・ジョンソンに単純計算で1ヶ所の投票所につき約1票、約3600票という僅差で敗北している。落選後、コロラド大学理事を務め、1948年にエレノア・フェアオール・ハウと結婚した。1950年に、足に感染症を抱えていたが知事選に出馬することを決定した。しかし一次選挙で敗北した2日後に死去した。
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