ヤギの生殖腺移植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 13:58 UTC 版)
「ジョン・R・ブリンクリー」の記事における「ヤギの生殖腺移植」の解説
1918年、ブリンクリーはミルフォードに16部屋の診療所を開設し、そこで地元の経済を活性化させ、1918年のインフルエンザで伝染性が高く致命的な大流行に苦しんでいる患者の自宅を訪問し、良い治療をおこなうことで、地元住民の賛同を即座に受けることとなった。 のちに、ニセ医者として悪名高くなったが、インフルエンザの罹患者を治癒させた彼の成功、そして彼が治療に費やした時間は、非常に積極的なものだった。 ブリンクリーが委任した伝記で述べているように、彼は「精力の弱い」人を治療できるかどうかをある患者から尋ねられたとき、ヤギの精巣を男性に移植するアイデアを思いついた。 ブリンクリーは冗談で「あなたに1組のヤギの精巣腺」があれば問題ないと冗談を言って答えた。その後、その患者はブリンクリーに150ドルでその手術を試みるよう頼んだ(のちに、その患者の息子は、カンザスシティ・スター新聞に以下のように語っている。「その実験を行なってくれれば、彼の父親がブリンクリーに手厚く報酬を支払うことを申し出た」)。 ブリンクリーの診療所では、施術1回あたり$ 750(現在価値で 9400ドル )の費用で、男性患者に、ヤギの精巣腺を移植して、男性の精力低下と不妊を回復治療できると主張し、手術を実行し始めた。 彼のこの荒っぽい手術を実行すると、患者の体はヤギの組織を異物として通常は吸収するだけだろう。 この施術において、ヤギの生殖腺は、ヒトの男性の精巣嚢、または女性の卵巣近くの腹部内に、単純に移植配置されているだけであり、体内に生着することはできない。 ブリンクリーの疑わしい医療技能(評判の悪い医療学校で75%しか修了していない)を考慮すると、無菌性に劣る手術環境での施術を繰り返し、感染症に罹患させ、数知れない多数の患者が死亡することは、当然の結果であった。彼は、1930年から1941年の間の不法医療行為による致死の罪で十数回以上訴えられることになった。 ブリンクリーが診療所を開いた直後、彼は主要な新聞に電話をかける次のような広告戦略をおこなった、すなわち、最初のヤギ生殖腺移植患者の妻は男の子を産んだと。 ブリンクリーは、認知症、気腫、鼓腸まで、27の病気の治療法としてこの施術を促進し始めた。 彼はダイレクトメール作戦も始め、広告代理店を雇った。そして、広告は、ブリンクリーが、治療により、救われない男性を「子羊を持つ雄羊」に変えるという、イメージを抱かせる助けとなった。 彼の広報活動、また成層圏からの主張(後述のラジオ放送)は、アメリカ医師会(AMA)の注目を集め、治療の秘密を調べるために調査官を診療所に送ることとなった。その調査官は、脊髄腫瘍の治療法としてヤギの卵巣を移植され、診療所周辺でよろめいている女性を見つけた。 それ以来、ブリンクリーはAMAの追跡監視を受け、最終的に彼を没落させる張本人で、また彼の医療詐欺を暴くこととなるモリス・フィッシュベイン医師の目に留まることとなった。 同時に、サルの精巣を男性に移植することで知られるようになったサージ・ヴォロノフを含む、他の医師も腺移植を試みていた。 1920年に、ヴォロノフはシカゴの病院で他の何人かの医者の前でその技術を示した、そこにブリンクリーは招かれてもいないのに現れた。 ブリンクリーは閉め出されたが、新聞に写真や経歴が掲載され、結局シカゴの病院で彼自身の手術の実演が実現する結果となった。ブリンクリーは、裁判官、市会議員、裕福な婦人、今は無いシカゴ大学ロースクール(現在のシカゴ大学ロースクールと異なる)の学長など、34人の患者にヤギの睾丸を移植し、すべて報道公開の中で実施された。彼の世間の注目は高まり、ミルフォードでの生殖腺移植ビジネスは急速に活発化した。 1922年、ブリンクリーは、ロサンゼルス・タイムズのオーナーであるハリー・チャンドラーの招待を受けてロサンゼルスを訪れ、ヤギの睾丸を彼の編集者の一人に移植するよう依頼された。手術が成功したならば、彼はブリンクリーを「アメリカで最も有名な外科医」にするであろう、そうでなければ自分自身を「間抜け」と考えるべきである、と彼は書いている。 カリフォルニアは折衷医科大学のブリンクリーの医師免許を認めなかった、しかしチャンドラーは各方面に手を回し、彼に30日の許可を得た。生殖腺移植手術は成功と判断され、ブリンクリーはチャンドラーの論文で彼が約束した注目を受けた、その結果、ハリウッド映画スターを含む新しい多くの顧客が獲得できた。 ブリンクリーはハリウッドという都市、そして潜在的な患者という形ですべてお金となることに強く惹かれ、彼は診療所を移転する計画を立て始めた。 しかし、カリフォルニアの医療委員会が彼の履歴書に「嘘と矛盾があった」ことを発見したため、医療行為実施の永久免許の申請を拒否したとき、彼の希望は打ち砕かれた。ブリンクリーは臆せず、カンザス州に戻り、ミルフォードにある診療所を拡張し始めた。 ブリンクリーの活動は、「ヤギの生殖腺」という映画業界の用語を生み出した、この用語は音声部分を無声映画フィルムに「移植」し、市場性のあるものする製作技術を指す。
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