最初の結婚、摂政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:53 UTC 版)
「マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン」の記事における「最初の結婚、摂政」の解説
1806年、ナポリ・シチリア王子フランチェスコと、その妃でスペイン王カルロス4世の娘であるマリア・イサベルとの間の次女として、パレルモに生まれた。1816年に祖父フェルディナンド1世が国称を「両シチリア王国」に改称したため、マリア・クリスティーナの称号も「ナポリ・シチリア王女」から「両シチリア王女」に変えられた。 1829年12月11日、マドリードでスペイン王フェルナンド7世と結婚した。フェルナンドはマリア・クリスティーナの母の兄であるうえ、父の妹マリア・アントニアの寡夫でもあり、いずれの意味でも伯父であった。フェルナンド7世は3度の結婚で後継ぎを授かることが出来ず、4番目の結婚相手であるマリア・クリスティーナに息子が出来ることを切望していた。マリア・クリスティーナは娘を二人産んだが、男子を授かることはなかった。 イサベル(1830年 - 1904年) - スペイン女王イサベル2世 ルイサ・フェルナンダ(1832年 - 1897年)- 1846年、モンパンシエ公アントワーヌ・ドルレアンと結婚 1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、王位継承法の改定によって長女イサベルが女王イサベル2世として即位した。しかしフェルナンド7世の弟で、サリカ法による以前の王位継承法の下では王位継承者だったモリナ伯カルロスが、女子の王位継承は不法であるとして反旗を翻した(カルリスタ戦争)。モリナ伯の支持者(カルリスタ)は、フェルナンド7世は後継者としてモリナ伯を指名していたのに、マリア・クリスティーナがその遺志を握りつぶした、と主張していた。またカルリスタたちは、イサベルを後継者と認めるという文書に書かれたフェルナンド7世の署名は、マリア・クリスティーナが勝手に書いたものである、とも言っていた。 モリナ伯はカトリック教会やその他の保守勢力からかなり広範な支持を受け、権力を奪取しようとしたが、マリア・クリスティーナは娘の王位を保持することに成功した。カルリスタ戦争は王位継承をめぐる争いから始まったが、やがてスペイン国家の未来を争う内戦へと変貌していった。イサベル2世を擁したマリア・クリスティーナの支持者は自由主義憲法や社会改革に賛同するリベラル派であり、カルリスタは伝統社会への回帰と絶対王政の保守を望んでいた。結局、軍隊がイサベル2世に忠誠を誓ったため、カルリスタは戦争に敗れた。
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