ヒスパニア遠征
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「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「ヒスパニア遠征」の解説
当時、エブロ川以西のヒスパニアは完全にカルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟ハスドルバル・バルカとハスドルバル・ギスコとがこれを統治していた。 海路エブロ川流域に上陸したスキピオは、直接カルタゴ・ノウァ(現カルタヘナ)を急襲して占拠し、カルタゴ勢を驚かせる。敵の勢力の中心部を速やかに攻略したスキピオは、カルタゴ・ノウァの財力を元手にヒスパニア現地民を買収し、カルタゴの圧制からの解放者というイメージを演じる。この時、地元の部族から戦勝祝いとして美しい娘を妾にと贈呈されたが、娘に婚約者がいることを知り、両親から送られた金銀を添えて娘を婚約者のもとへ返したという。また小回りの効く短めの剣・グラディウスもここの工房で生産したという。 こうしてスキピオはヒスパニアでの戦争を有利に展開していったが、同時に元老院の戦略上の関心は遠いヒスパニアにではなく、イタリア本土で対峙しているハンニバルにあることも理解していた。本国からの増援は望めず、スキピオはヒスパニアの現地民からなる軍団を編成する。 紀元前209年、ハスドルバル・バルカをバエクラの戦いで破る。しかし、ここで他のカルタゴ勢を警戒したスキピオは慎重な行動に徹し、結果としてハスドルバルは追撃を受けることなく無事に退却してしまう。これが後にハシュドゥルバル率いるカルタゴ軍にローマ領ガリア・トランサルピナへの侵入を許すという結果を招いた。
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ヒスパニア遠征
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「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「ヒスパニア遠征」の解説
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。 元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。 ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。 ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。
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