ヒスパニア問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 02:55 UTC 版)
「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事における「ヒスパニア問題」の解説
紀元前140年、プロコンスル(前執政官)クィントゥス・ポンペイウスは、ヒスパニアで反乱を起こしていたヌマンティアと妥協的な講和条約を締結したが、後に自分は譲歩していないと称し、裁判にかけられたが無罪となっていた。紀元前137年、ヒスパニア・キテリオルで執政官ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスが、ヌマンティアとまたもや恥ずべき協定を結んだとの報告がローマに届いた。紀元前136年にマンキヌスがローマに戻ると、裁判が行われることとなった。サピエンスを始めとする「スキピオ・サークル」は、マンキヌスだけではなくポンペイウスも法廷に立たせた。しかし、有罪となったのはマンキヌスのみで、ポンペイウスは再び無罪となった。 このヒスパニアでの第二次ケルティベリア戦争を終結させたのは、またもスキピオ。アエミリアヌスであった。この勝利によって、新たに「ヌマンティヌス」のアグノーメンを得る。スキピオと共に出征した人物の中に、サピエンスは言及されていない。
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