ドイツ法典論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1806年、ナポレオン戦争によりベルリンが陥落して神聖ローマ帝国が滅亡、仏軍占領地域ではナポレオン法典が施行される。 1807年、プロイセン改革が始まり、法典の基礎となっていた啓蒙絶対君主制が否定される。 1811年、ナポレオン体制(ライン同盟)崩壊。オーストリア一般民法典公布。最後の啓蒙自然法典であり、仏民法典に完成度で劣るものの、プロイセン法典と異なり努めて簡略に徹し公法的規定や細目を排除。 ここで、日本の民法典論争とも比較されるドイツの法典論争が起きる。 1814年、ハイデルベルク大学教授のアントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボーが『ドイツ一般市民法の必要性』を著し、啓蒙期自然法学の立場に立ちつつ、「一帝国一法律」のスローガンを掲げて、速やかにドイツ統一法典を制定し、全国ばらばらの錯綜した法制度を廃止すべきと主張した。これに対しベルリン大学のサヴィニーは、言語と同じく、法は民衆の生活から生まれるもので、君主や学者が制作して上から押し付けるものでないと批判、法学の充実が先決と主張(立法と法学に対するわれわれの時代の使命について)。 時と場所を越えた普遍的法を人間の理性によって発見できるという自然法学に対し、法は習俗および民族の確信、次に法学によって生み出されるとの立場を歴史法学という。 論争の結果統一法典編纂は見送られたが、両者はローマ法を基本に統一法典を編纂すべきことは一致し、サヴィニーが時期尚早論を唱えたに過ぎないが、ハノーファー王国の大臣アウグスト・ヴィルヘルム・レーベルクのように、法典統一それ自体に反対した論者も存在した。 1815年、オーストリア帝国を中心にドイツ連邦成立(国家連合)。東プロイセンは神聖ローマ帝国に所属していなかったことを理由に、西プロイセンとともに埒外に置かれた。
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