ドイツ民法典論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1888年、ローマ法を重視するロマニステンのヴィントシャイトの主導により、ドイツ民法第一草案成立(パンデクテン方式)。この草案もまた、新し過ぎるという批判と、古過ぎるという批判に挟撃される。 1889年(日本では明治22年)、ゲルマニステンのオットー・フォン・ギールケは、第一草案があまりに個人主義・自由主義・ローマ法的に過ぎ、農村由来の伝統的なゲルマン法を無視し、また文体も抽象・学術的に過ぎると批判する書を出版。家長権と所有権に対する個人主義のローマ法と団体主義のゲルマン法の基本的考え方の違いが根底にある。 日本では、延期派が引き合いに出す独法は未だ法の統一を成しえず参考にならないとして、当初の法典全廃論から断行派に転じた法律取調委員の「某貴顕」のような人物が出現(6月5日読売新聞)。なお、商法典論争院内論戦で村田保から変節を咎められているのは槇村正直である。 翌年、オーストリアのアントン・メンガー(英語版)は、近代社会主義を知らないローマ法の形式的平等が無産階級に不利益をもたらすと批判。 留学中の穂積八束を通して日本にも波及したとも推測され、ローマ法的個人主義を弱肉強食の法と批判し、「個人」でなく家族団体を「法人」として社会の基礎単位にすべきというのが八束らの主張であった。
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