ドイツ民法典論争の顛末
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「民法典論争」の記事における「ドイツ民法典論争の顛末」の解説
1895年、独民法第一草案に対する批判を多少加味し、ギールケの言う「一滴の社会主義の油」(独民法正文617条の労働者保護規定など)を加えた第二草案が全編完成。しかし本質的変更には至らず、基本的枠組みは維持。 1896年、同草案を微修正して完成したドイツ民法典(1900年施行)は、妻を行為能力者とするローマ法の個人主義を採るべきでないという主張を退け、仏民法典と異なり妻の行為能力、訴訟能力を認めるなど、カトリック勢力の抵抗により不徹底ながらも、男女平等に大きく踏み出す当時としては画期的な民法典であった(1976年に財産的男女平等が実現)。 独民法旧1356条 1.妻は共同の家事を管理する権利を有し義務を負ふ但し1354条の適用を妨げず 旧1354条 1.夫は婚姻上の生活に関する総ての事務特に住所及び住宅を決定す 2.前項の決定が権利の濫用と見做さるべき場合に於いては妻は之に従ふべき義務を有さず 竟(つい)に彼等が理想とせる「一民、一国、一法」…の実を挙ぐるに至った。「ザヴィニー」「ティボー」の法典争議は、其学理上の論拠、論争の成敗の跡、及び其結局が法典の編纂に帰着した所等、悉く我法典延期戦に酷似して居る。我延期戦の後ち、両派が握手して法典編纂に努めた如く、「ザヴィニー」「ティボー」の両大家も定めて半世紀の後ち地下に於て握手したことであらう。 — 穂積陳重『法窓夜話』98話 なお一部歴史学者は、妻の法的無能力(昭和22年改正前14条)を独法系の明治民法の特徴として挙げるが、妻の行為能力原則肯定・例外否定の英・独法系を退け、旧民法(人68条)と同じく、原則否定・例外肯定の仏法系を採用したものと説明されている。また夫の同意無き行為が不可能なわけではなく、取消事由になるに留まる(同2項、16条)。 ドイツでも、個人ではなく家法人を社会の基本単位にすべきとの主張は退けられた。相続は1900年の民法施行法が農地・林地や一部大貴族に民法典適用を除外していたが、法典自体は分割相続。 現実に営まれている家族生活・家産制が再評価され、正面から立法化されるのは後続のスイス民法典である。 独民法典の個人主義・自由主義は後にナチスによる排撃を受け、廃止寸前にまで追い込まれることになる。
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