ドイツ民俗学
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一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という民族主義的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者のヘルダー(Johann Gottfried Herder)が民族の魂の発露としての民謡の概念を提唱し、次いで昔話収集や古法・法諺の研究で有名なグリム兄弟らが、ドイツロマン主義を背景に神話学としての民俗学への道筋を敷き、それは時代風潮とも合って、一種のブームとなった。そのためロマン派のドイツ民俗学はゲルマニスティク(ドイツ語学・文学研究)との重なりが強かった。その傾向に異を唱えたのは、1850年代のヴィルヘルム・ハインリヒ・リールであった。リールは、ロマン派の民俗学が珍習奇俗の収集とそれを神話との関係で読み解く好事家的な方向にあることを批判し、現実の民衆生活を体系的に把握すべきことを説いた。特に「学問としてのフォルクスクンデ」が重要であるが、ドイツ民俗学の関係者がリールに注目するようになるのは20世紀に入ってからであり、リール自身はグリム兄弟との接触もなく、また生前には民俗学の人脈とはほとんど無関係であった。後にリールはドイツ民俗学の指標とされるようになるが、他方、リールの思想の保守性や反動的性格を指摘する声も根強く、評価をめぐって何度も論争が起きた。 1891年にはグリム兄弟の晩年の弟子でもあるカール・ヴァインホルト(ベルリン大学教授)がベルリン民俗学会を基礎に民俗学協会の設立へと軌道を敷き、それが後に今日のドイツ民俗学会となった。ドイツでは19世紀後半から民俗学が盛んになり、研究組織や愛好団体が多数あったが、統一的組織はなく、その意味でドイツ民俗学会の設立はドイツ民俗学の展開においてエポックとなった。ヴァインホルトはドイツ語史や方言研究を専門とするドイツ語学教授で、グリム兄弟の神話を民俗学の方向へ伸ばし、民俗学を学問へ発展させるべく学会機関誌として『民俗学誌』の刊行も始めた。 20世紀前半には、ハンブルク大学において初めて大学での民俗学ポスト(ただし、設置者の構想ではハンブルク都市史に重点があった)に就いたオットー・ラウファー(Otto Lauffer)、ロマン派の民俗学との決別を劇的に表現したスイスのエードゥァルト・ホフマン=クライヤー(Eduard Hoffman-Krayer)、上層文化/下層文化の二層論を提示したナウマン(Hans Naumann)、心理学的方法を提唱したアードルフ・シュパーマーなど多くの理論家が生まれた。 しかし現行の習俗を古代との連続性(Kontinuität)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出そうとする傾向をもつ民俗学は、本質的に民族主義的な政治イデオロギーに取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の国家社会主義時代には国民統治および人種主義の国策学問へと取り込まれていった。ナチス政権下の国策民俗学機関として「ローゼンベルク機関」と「アーネンエルベ(祖先の遺産)」が組織され、ゲルマン民族の遺産の解明のためあらゆる資料が集められ、その中には荒唐無稽な偽古文書も含まれ、オカルティックな偽史までが国策に利用されていった。ナチス党員としてプロパガンダ作成や民俗行事の創出に積極的に関わった学者は必ずしも多くはなく、熱狂的となったのは若手や少壮が中心で、彼らはまたナチ・エリートでもあったが、他の大半の研究者も批判的視点をもつには程遠く、思想的にナチズムと同質・同根の要素をかかえていたのが実態であり、それだけに問題は根深いものがあった。そうした体質が、戦後、何度か波をつくりながら批判されることになった。戦後の西ドイツ民俗学界は、学問としての信頼を失ったフォルクスクンデを自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。ミュンヘンではハンス・モーザーとカール=ジーギスムント・クラーマーが中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。 現行の民俗事象の把握では、テュービンゲン大学のヘルマン・バウジンガーが最初の主要著作『科学技術世界のなかの民俗文化』(1961年刊)において、科学的な技術機器と常に身近に接する生活のあり方こそ近・現代の生活文化の基本であるとの観点に立ち、逆に伝統文化や伝承には一種の異質性とそれゆえの吸引力があることに着目して、民俗学の背景となっていた、伝統・伝承に基底的なものを見てきた従来の通念を覆すような理解の構図を提示した。またこれに理論的な支柱を得てハンス・モーザーがフォークロリズム(フォークロリスムス、Folklorismus)の概念を提起し、さらにバウジンガーが補強したことによって、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込むことが大幅に進展し、変化しにくいとされる伝統習俗に固執する旧い民俗学からの脱却が図られた。 バウジンガーは、1971年、テュービンゲン大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft(経験的[型]文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容し、また近年ではEUが日常生活の次元でも枠組みとなる趨勢もあって、マールブルク大学を先駆けとするヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデの二重名称を採用することが多くなっている。日本でも、ドイツの動きに刺激されて、民俗学の名称への疑問が起きている。ただし、学問名称をめぐっては、ドイツ民俗学の研究者河野眞は、ドイツ語の「フォルクスクンデ」は一般語であると共に、<民の覚え>といった古めかしくもあれば馴染みやすくもある語感をもち、それゆえ言葉が独り歩きして混乱を大きくした面があること、それに対して日本語の「民俗学」は民俗研究をもっぱら指す造語の性格にあり、その違いを見ると、学問名称の当否に関するかぎり日本語の場合大きな問題ではなく、むしろドイツ民俗学界において名称変更を機になされた議論の中身に注目すべきであると説いている。
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