ナチス党員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 13:51 UTC 版)
「リヒャルト・ヴァルター・ダレ」の記事における「ナチス党員として」の解説
ダレは1930年6月1日に国民社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号248,256)して活動的な党員となり、農民をナチスに加入させるため1930年夏に農業に関する政治組織を設立した。彼はこの組織に対して三つの主要な役割を果たした。すなわち、都市政府に対する武器として田園地方の農民の不安につけ込むこと、ナチスの忠実な後援者として農民を味方につけること、将来の東側の征服地でスラヴ人にとって代わる移民として使える人々の選挙区を獲得すること、以上の三つである。すべてにおいて、彼は田園地方を国家社会主義に向けることにかなりの成功をおさめた。 ナチスが政権を掌握してすぐにダレは食糧農業大臣(ドイツ語版)、人種移住局長官、全国農民指導者に就任し、1933年から1942年までつとめた。1940年にドイツ軍がフランスを占領したことで、ドイツの食糧問題の危険性はなくなったため、関心を持っていたが生産性の低さから表立って推奨できなかった神秘家ルドルフ・シュタイナーのバイオダイナミック農法への支持を明らかにし、「バイオダイナミック農法は真理であり」、ドイツの荒廃という「袋小路から抜け出す唯一の方法である」として、党員に支持を呼びかけた。彼は独立小農民を保護する世襲農場法の制定を進めたが、この法律は論争を引き起こした。彼はまた、北海から土地を開発することにも尽力した。 ダレは親衛隊人種及び移住本部(猛烈に人種差別的で反セム主義的な組織)の設立に際して主導的な役割を果たした。彼は「人種と領域」に対する計画を発展させ、「我が闘争」で詳述された「東方への衝動」や「生存圏」に代表されるナチスの膨張主義的政策にイデオロギー的な背景を与えた。選択的な交配にもとづいてドイツ人の人種的貴族を創造する目標を持っていたヒムラーにダレは強い影響を与えた。しかし後に、ダレは空論的に過ぎるとヒムラーは考えるようになり、ダレとの関係を絶った。また彼は、概してヒャルマル・シャハトとの関係がよくなかった。 ダレは大臣在任中から喘息、湿疹、肝臓病に悩まされており、1942年5月23日から病気療養のために大臣職を休職し、食糧省次官のヘルベルト・バッケが大臣職務代理を務めた。ダレは食料大臣の地位は保持したものの、1944年4月1日に辞任した。
※この「ナチス党員として」の解説は、「リヒャルト・ヴァルター・ダレ」の解説の一部です。
「ナチス党員として」を含む「リヒャルト・ヴァルター・ダレ」の記事については、「リヒャルト・ヴァルター・ダレ」の概要を参照ください。
- ナチス党員としてのページへのリンク