ナチス党での活動
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「オットー・オーレンドルフ」の記事における「ナチス党での活動」の解説
ナチス党の規模が小さく活動がまだ分化していない時期だったこともあり、オーレンドルフは、ポスター貼りや新聞配達、集会での演説など様々な活動をし、ナチス党の私兵部隊突撃隊(SA)の中に新たに創設されたばかりの親衛隊(SS)の活動にも参加することとなった(隊員番号880)。 1931年にはゲッティンゲン大学の経済学者イェンス・ペーター・イェッセン(ドイツ語版)教授(彼もナチ党員だった)の勧めでファシズムの中心地イタリアのパヴィア大学へ一年間留学した。しかしオーレンドルフは、イタリアのファシズム運動には共感を覚えなかったようである。のちのニュルンベルク裁判でもファシズムとナチズムが違うことを力説している。 ヒトラー内閣誕生後の1933年、オーレンドルフは、ヒルデスハイム地方裁判所の試補見習となった。同年10月からはイェッセン教授のいるキール世界経済研究所に入って、イェッセン教授の助手をするようになる。しかしイェッセンとオーレンドルフは、キールのナチ党の「ナショナル・ボルシェヴィズム」の者達と激しく対立するようになり、1934年秋にはキールを追われている。またこの年に結婚。やがて5人の子供の父親となる。1935年、ベルリン大学経済学研究所に主任研究員として入所。 1936年5月にイェッセン教授の勧めでSD(親衛隊情報部)に入隊。SDII23(経済部)部長に就任した。四カ年計画やヴァルター・ダレの国家食糧身分団によるイデオロギー的政策により100万に近い中間層の経営が脅かされるようになるとオーレンドルフは中間層の保護をはかろうとして、ヴァルター・ダレなどと潜在的に対立するようになった。しかしヒムラーにとってダレのイデオロギーは重要だったのでオーレンドルフのダレへの反対は却下された。 SSやSDの中での活動に限界を感じたオーレンドルフは、ラインハルト・ハイドリヒに再三にわたり、SDから離れる許可を得ようとした。許可は下りなかったものの、1938年6月からはSDの専属を離れて新たに国家商業集団業務執行者となった。ここでもオーレンドルフは中間層の保護政策を押し進めた。1939年9月にハイドリヒの国家保安本部が立ち上げられるとその第3局(SD国内業務)の局長を命じられた。国家商業集団業務執行者の地位も引き続き保持した。
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