ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)」の解説
詳細は「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」、「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」、および「1812年ロシア戦役」を参照 エカチェリーナ2世は皇太子パーヴェルと不仲であり、彼を廃嫡して孫のアレクサンドルを後継者とすべく準備を進めていたとまで伝えられるが、エカチェリーナ2世の急死により、パーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)が即位した。 パーヴェル1世は帝位継承法を定めて以後の女帝の可能性を封じ、母エカチェリーナ2世の政治を否定する政策を行った。ラジーシチェフら先帝によって処罰されていた思想家を赦免する一方で、皇帝自身は革命思想を嫌悪しており、過度な思想弾圧を行っている。パーヴェル1世の統治は専横な振る舞いが目立ち、さらに先帝が与えた貴族の諸特権を廃止したため不満を受けた。対外政策では当初は列強諸国とともに反仏政策を取ったが、イギリスと対立を起こすとナポレオンに接近してインド遠征を計画するなど首尾一貫しなかった。1801年3月23日にパーヴェル1世の政策に反発した勢力がクーデターを起こし、皇帝は宮殿内で殺害されたパーヴェル1世暗殺事件(ロシア語版)。この事件がロシア帝国での最後の宮廷クーデターとなった。 皇太子がアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)として即位した。祖母エカチェリーナ2世の方針により啓蒙思想教育を受けたアレクサンドル1世は自由主義に同情的であり、即位すると「若き友人たち」と呼ばれる進歩的な青年貴族を中心とする秘密委員会を組織した。立憲君主制の導入や土地改革と農奴解放、教育制度の改革といった斬新な改革案が議論されたが、参議会制から省庁制への移行、国民啓蒙省の設置そして不徹底な農奴解放などを除きほとんどは議論のままで終わっている。スペランスキーを起用して大胆な国政改革も試みられたが、保守的な貴族の反発を受けて挫折した。 対外的には先帝の中立路線を放棄してイギリス、オーストリアと第三次対仏大同盟を組みナポレオンと対決したが、1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で惨敗を喫した。オーストリアがフランスに屈服して同盟は瓦解した。翌1806年にプロイセンを加えた第四次対仏大同盟を結んで再度ナポレオンと対戦するが、1807年のアイラウの戦いそしてフリートラントの戦いでロシア軍は敗れ、ティルジットの和約を締結する。この講和により、ロシアはナポレオンの大陸封鎖令に参加してイギリスと開戦し、また旧プロイセン領ポーランドの地にワルシャワ公国が建国された。 1808年にイギリスと同盟を結ぶスウェーデンと開戦して勝利し、翌1809年のフレデリクスハムンの和約でフィンランドとオーランド諸島を併合した(第二次ロシア・スウェーデン戦争)。1812年にオスマン帝国からモルダヴィア公国東部とオスマン領ベッサラビアを獲得し(全体をベッサラビアと呼称)、1813年にはペルシアとの戦争にも勝利してグルジア、アゼルバイジャンを併合している(ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年))。 大陸封鎖令の実施を巡ってロシアとフランスの対立が高まり、1812年6月にナポレオンは約60万人の大兵力を率いてロシアに侵攻した(第一次大祖国戦争)。ロシア軍は決戦を避けて焦土作戦を行いつつ後退した。9月にクトゥーゾフ将軍のロシア軍がボロジノの戦いでナポレオンの大陸軍と対戦するが、両軍とも甚大な犠牲を出して、ロシア軍は整然と後退した。大陸軍はモスクワを占領するが、直後に大火(英語版)が起きて町は廃墟と化しており、アレクサンドル1世はナポレオンからの和平交渉に応じようとはしなかった。ナポレオンはモスクワを放棄して撤退を開始するが、冬季の退却戦で大損害を出して大陸軍は壊滅状態となり、ロシア遠征はナポレオンにとって破滅的な大敗で終わった。 ロシア軍は敗走するナポレオン軍を追撃して中欧そして西欧にまで進軍し、パリの城門にまで至った。ロシア軍をはじめとする連合軍がナポレオンを撃破した後、アレクサンドル1世は「ヨーロッパの救済者」として知られるようになり、彼はウィーン会議でのヨーロッパの枠組み変更を主宰し、ワルシャワ公国の大部分を獲得してポーランド立憲王国の君主となった。 ナポレオン戦争後、アレクサンドル1世は自由主義的政治思想を捨てて強く反動に傾き、国際的にはキリスト教倫理に基づきウィーン体制を守護する神聖同盟を主唱した。国内的にはアラクチェーエフを重用して反動政治を展開させており、国内政策のうちアレクサンドル1世の発案に基づきアラクチェーエフが実施した屯田制度(英語版)は無残な失敗に終わり、農民の怨嗟を受ける結果となった。晩年のアレクサンドル1世は政治に無関心になり始め、神秘主義に傾倒しており、1825年の南ロシア視察中に不可解な死を遂げている。 ナポレオンに対する勝利により、ロシア帝国は19世紀における主導的な国際政治上の地位を占めたものの、農奴制を維持し続けたことにより経済的な発展が阻害されていた。18世紀後半に始まった産業革命によって西欧諸国の経済成長が加速されていた一方で、ロシア経済は大きく立ち遅れており、列強国ロシアにとって新たな問題となった。政府の不効率、国民の阻害そして経済的後進性は列強国としてのロシアの地位によって覆い隠されていた。
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