ナポレオン戦争からウィーン体制へとは? わかりやすく解説

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ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)」の解説

詳細は「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」、「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」、および「1812年ロシア戦役」を参照 エカチェリーナ2世皇太子パーヴェル不仲であり、彼を廃嫡して孫のアレクサンドル後継者とすべく準備進めていたとまで伝えられるが、エカチェリーナ2世急死により、パーヴェル1世在位1796年 - 1801年)が即位したパーヴェル1世帝位継承法定めて以後女帝可能性封じ、母エカチェリーナ2世政治否定する政策行ったラジーシチェフ先帝によって処罰されていた思想家赦免する一方で皇帝自身革命思想嫌悪しており、過度な思想弾圧行っている。パーヴェル1世統治専横な振る舞い目立ち、さらに先帝与えた貴族の諸特権廃止したため不満を受けた対外政策では当初列強諸国とともに反仏政策取ったが、イギリス対立起こすナポレオン接近してインド遠征計画するなど首尾一貫しなかった。1801年3月23日パーヴェル1世政策反発した勢力クーデター起こし皇帝宮殿内殺害されパーヴェル1世暗殺事件ロシア語版)。この事件ロシア帝国での最後宮廷クーデターとなった皇太子アレクサンドル1世在位1801年 - 1825年)として即位した祖母エカチェリーナ2世方針により啓蒙思想教育受けたアレクサンドル1世自由主義同情的であり、即位すると「若き友人たち」と呼ばれる進歩的な青年貴族中心とする秘密委員会組織した立憲君主制導入土地改革農奴解放教育制度改革といった斬新な改革案が議論されたが、参議会制から省庁制への移行国民啓蒙省の設置そして不徹底な農奴解放などを除きほとんどは議論のままで終わっている。スペランスキーを起用して大胆な国政改革試みられたが、保守的な貴族反発受けて挫折した対外的には先帝中立路線放棄してイギリスオーストリア第三次対仏大同盟組みナポレオン対決したが、1805年アウステルリッツの戦い三帝会戦)で惨敗喫したオーストリアフランス屈服して同盟瓦解した。翌1806年プロイセン加えた第四次対仏大同盟結んで再度ナポレオン対戦するが、1807年アイラウの戦いそしてフリートラントの戦いロシア軍敗れティルジットの和約締結する。この講和により、ロシアナポレオン大陸封鎖令参加してイギリス開戦し、また旧プロイセン領ポーランドの地にワルシャワ公国建国された。 1808年イギリス同盟を結ぶスウェーデン開戦し勝利し、翌1809年フレデリクスハムンの和約フィンランドオーランド諸島併合した第二次ロシア・スウェーデン戦争)。1812年オスマン帝国からモルダヴィア公国東部オスマンベッサラビア獲得し全体ベッサラビア呼称)、1813年にはペルシアとの戦争にも勝利してグルジアアゼルバイジャン併合している(ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年))。 大陸封鎖令実施巡ってロシアフランス対立高まり1812年6月ナポレオンは約60万人大兵力を率いてロシア侵攻した第一次大祖国戦争)。ロシア軍決戦避けて焦土作戦行いつつ後退した9月クトゥーゾフ将軍ロシア軍ボロジノの戦いナポレオン大陸軍対戦するが、両軍とも甚大な犠牲出してロシア軍整然と後退した大陸軍モスクワ占領するが、直後大火英語版)が起きて町は廃墟化しており、アレクサンドル1世ナポレオンからの和平交渉応じようとはしなかった。ナポレオンモスクワ放棄して撤退開始するが、冬季退却戦で大損害を出して大陸軍壊滅状態となり、ロシア遠征ナポレオンにとって破滅的な大敗終わったロシア軍敗走するナポレオン軍追撃して中欧そして西欧にまで進軍しパリ城門にまで至ったロシア軍はじめとする連合軍ナポレオン撃破した後、アレクサンドル1世は「ヨーロッパ救済者」として知られるようになり、彼はウィーン会議でのヨーロッパ枠組み変更主宰しワルシャワ公国大部分獲得してポーランド立憲王国君主となったナポレオン戦争後、アレクサンドル1世自由主義的政治思想捨てて強く反動傾き国際的にキリスト教倫理に基づきウィーン体制守護する神聖同盟主唱した国内的にアラクチェーエフ重用し反動政治を展開させており、国内政策のうちアレクサンドル1世発案に基づきアラクチェーエフ実施した屯田制度(英語版)は無残な失敗終わり農民怨嗟を受ける結果となった晩年アレクサンドル1世政治無関心になり始め神秘主義傾倒しており、1825年南ロシア視察中に不可解な死遂げている。 ナポレオン対す勝利により、ロシア帝国19世紀における主導的な国際政治上の地位占めたものの、農奴制維持し続けたことにより経済的な発展阻害されていた。18世紀後半始まった産業革命によって西欧諸国経済成長加速されていた一方でロシア経済大きく立ち遅れており、列強国ロシアにとって新たな問題となった政府の不効率国民阻害そして経済的後進性は列強国としてのロシア地位によって覆い隠されていた。

※この「ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 - 1825年)」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。

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