ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊
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「反ユダヤ主義」の記事における「ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊」の解説
詳細は「ナポレオン戦争」を参照 1800年、ナポレオンがマレンゴの戦いやホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し、1801年のリュネヴィルの和約で神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した。講和後に作家シラーはドイツ帝国とドイツ国民は別であり「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳がおかされることはない」と述べた。 1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した。アウクスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルクおよびリューベックの6都市と、ライン左岸4都市をのぞく41の帝国自由都市が陪臣化された。ナポレオンは西南ドイツを自立させて、プロイセンとオーストリアに対する政策をとった。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった。 1803年、イギリスとフランスは再び開戦し、ナポレオン戦争(1803年–1815年)がはじまる。イギリスは、オーストリア帝国、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成した。 1804年、ナポレオンがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世はオーストリア皇帝を称した(オーストリア帝国)。この1804年、オーストリア帝国外相メッテルニヒの秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた。ゲンツは、フランス革命が起きた時には「理性の革命」であり「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の騎手となっていた。 1805年からの第三次対仏大同盟戦争で、フランス軍は1805年10月のウルム戦役でオーストリアを降伏させ、12月アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利した。プレスブルクの和約でドイツは「帝国」ではなく「連盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ=ドイツ皇帝」でなく「「ローマ=オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であったバイエルンとヴュルテンベルクとバーデンは選帝侯国から王国・大公国に昇格し、バイエルン王国にはオーストリア領チロル、バーデン大公国にブライスガウが割譲された。 1806年7月12日、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオンを保護者とするライン同盟(ラインブント)を結成し、帝国脱退を宣言した。1806年10月、フランツ2世はオーストリア皇帝の称号は保持したまま、神聖ローマ皇帝としての退位を宣言し、こうして1512年以来の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた。この頃のドイツは大半がフランスの支配下にあり、マインツ、ケルン、トリーアなどのライン左岸地域は1794年以来フランス軍政下にあり、1801年にフランスに割譲された。ナポレオンはライン同盟をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランスはライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した。ライン同盟はその後、ナポレオンの傀儡国家であるヴェストファーレン王国、ザクセン王国など39のドイツ連邦が加盟した。
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