ナポレオン戦争とジュリアン伯爵
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「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「ナポレオン戦争とジュリアン伯爵」の解説
1808年、ランダーは半島戦争に参加しようという英雄的な衝動に駆られた。33歳の彼は、ナポレオンに抗する国民軍の志願兵になるために英国からスペインに旅立った。ア・コルーニャに上陸、英国の使者に自らを売り込み、ベントゥラーダの救済のために1万レアルの寄付を申し出て、ホアキン・ブレイク・イ・ジョイス(英語版)将軍の軍勢に入った。実戦に参加できずにいることに失望を覚え、ビルバオを救援することが自らのすべきことと悟るが、そこで危うく捕虜になりかけた。数か月後、シントラ協定(英語版)が成立、これにより、戦争は終わり、ランダーは帰国した。スペイン政府は彼に感謝の意を表し、フェルナンド王はスペイン軍の大佐の地位を約束した。しかし、王がイエズス会を復活させると、彼は自分の任務に戻った。 英国に戻ると、彼はワーズワース、サウジーと一緒になってシントラ協定を非難し、一般大衆の義憤を煽った。1809年には『ドン・フランシスコ・リケルメへの3通の手紙』(Three letters to Don Francisco Riquelme)を著し、戦争に参加したことが賢明な行いであると主張した。また、スウェーデン王グスタフ4世への頌詩を書き、さまざまな偽名を用いて新聞にも寄稿した。1810年には、『フランシス・バーデットへの素晴らしい手紙』(A brave and good letter to Sir Francis Burdett)を書いた。 スペインで起きたことがドン・フリアン (セウタ伯)(英語版、スペイン語版)を題材にした悲劇『ジュリアン伯爵』(Count Julian)への刺激になった。この作品は、ランダーの作品の際立ったスタイルを示すものとなったが、彼自身が劇作の手法を学んでいなかったために印象の薄いものとなった。そのプロットは、歴史の流れを事前に知っていて、西ゴート族の最後の王が敗北した後の複雑な状況に関心を払わなければ理解することが難しい。罪を増やすことの罪についての道徳的なトーンを示していた。サウジーが出版へ向けての調整を引き受け、1812年にマレーによって出版にこぎつけた。最初に依頼したロングマン(英語版)には出版を拒否され、そのために、ランダーはもう一つの悲劇作品『フェランティとジュリオ』(Ferranti and Giulio)を焼き捨てた。 トマス・ド・クインシーは後にこう書いている。「ランダー氏は、ヨーロッパでジュリアン伯爵の置かれた立場と厳格な自尊心、そして記念碑的悲劇を知る随一の人だろう」と。スウィンバーンは言う。「この作品は、この言語で書かれたジョン・ミルトンの代表作『闘士サムソン』とパーシー・ビッシュ・シェリーの最初の代表作『鎖を解かれたプロメテウス』の間にあって、道徳的高みと同様に詩的完全性においてこの両者の傍に等しく不動の地位を占めるに値する傑出した詩だ。英雄をとり囲んでその威厳を高める苦難と忍耐という超人的孤独が、いずれの場合も等しく効果的に十分な壮麗さをもって表現されている。『ジュリアン伯爵』のスタイルにドラマ的な平易さと自然な会話の流れに欠けるところがあるとしても、ミルトンの作品の中にしかないような恒常的に永続した言葉の力強さと純粋さと高尚さが備わっている」と。
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