マルス・ラ・トゥールの戦い
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「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の記事における「マルス・ラ・トゥールの戦い」の解説
プロイセン軍が猛進する一方で、13万人のフランス軍は前線で数回にわたって敗北を喫した後、メスの要塞に閉じ込められていた。シャロンにある友軍と連携するためにメスを離れようとするフランス軍の動きは、プロイセン軍のオスカー・フォン・ブルーメンタール(Oskar von Blumenthal)少佐指揮下の騎兵斥候により発見された。フランス軍の退却から4日後の8月16日、コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーベン(Konstantin von Alvensleben)将軍のプロイセン第2軍第III軍団3万人は、マルス・ラ・トゥール(Mars-La-Tour)東方のヴィオンヴィル(Vionville)付近でフランス軍を発見したものの、兵力ではかなり劣勢であった。 兵力は4対1であったが、第III軍団は冒険的な攻撃に打って出た。フランス軍は総崩れとなり、第III軍団はヴィオンヴィルを占領し、西へ向う退路を遮断した。メス要塞のフランス軍は退却を阻止され、血路を開くよりほかなくなった。ここに、西欧では最後となる大規模な騎兵戦を見る事となる。戦闘は直ぐに発生し、第III軍団は絶え間ない騎兵突撃を受け、兵の半数以上を失って粉砕されてしまった。一方のフランス軍も同程度の1万6千人の損害を受けたが、依然として圧倒的な数的優位に立っていた。 8月16日の時点ではフランス軍は要所のプロイセン軍の防衛を一掃して脱出できるチャンスがあった。フランス軍前衛を攻撃した2個プロイセン軍団は、これを退却中のムーズ(Meuse)のフランス軍の後衛だと考えていた。このような誤解があったものの、2個プロイセン軍団はフランス全軍を丸1日に亘って足止めした。兵力は5対1であったが、プロイセン軍の並外れた猛進が、フランス軍の優柔不断に打ち勝った。フランス軍は決定的な勝利を掴む機会を失ってしまった。
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マルス=ラ=トゥールの戦い
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「普仏戦争」の記事における「マルス=ラ=トゥールの戦い」の解説
詳細は「マルス=ラ=トゥールの戦い(英語版)」を参照 プロイセン軍が猛進する一方で、13万人のフランス軍は前線で数回にわたって敗北を喫した後、メスの要塞に閉じ込められていた。シャロンにある友軍と連携するためにメスを離れようとするフランス軍の動きは、プロイセン軍のオスカー・フォン・ブルーメンタール(Oskar von Blumenthal)少佐指揮下の騎兵斥候により発見された。フランス軍の退却から4日後の8月16日、コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーベン(Konstantin von Alvensleben)将軍のプロイセン第2軍第III軍団3万人は、マルス・ラ・トゥール(Mars-La-Tour)東方のヴィオンヴィル(Vionville)付近でフランス軍を発見したものの、兵力ではかなり劣勢であった。 兵力は4対1であったが、第3軍団は冒険的な攻撃に打って出た。フランス軍は総崩れとなり、第3軍団はヴィオンヴィルを占領し、西へ向う退路を遮断した。メス要塞のフランス軍は退却を阻止され、血路を開くよりほかなくなった。ここに、西欧では最後となる大規模な騎兵戦を見る事となる。戦闘は直ぐに発生し、第III軍団は絶え間ない騎兵突撃を受け、兵の半数以上を失って粉砕されてしまった。一方のフランス軍も同程度の1万6千人の損害を受けたが、依然として圧倒的な数的優位に立っていた。 8月16日の時点ではフランス軍は要所のプロイセン軍の防衛を一掃して脱出できるチャンスがあった。フランス軍前衛を攻撃した2個プロイセン軍団は、これを退却中のムーズ(Meuse)のフランス軍の後衛だと考えていた。このような誤解があったものの、2個プロイセン軍団はフランス全軍を丸1日に亘って足止めした。兵力は5対1であったが、プロイセン軍の並外れた猛進が、フランス軍の優柔不断に打ち勝った。フランス軍は決定的な勝利を掴む機会を失ってしまった。
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