サン=プリヴァの戦いとは? わかりやすく解説

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サン=プリヴァの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)

普仏戦争」の記事における「サン=プリヴァの戦い」の解説

グラヴロット サンプリヴァ メス 戦い関連地サンプリヴァ英語版)とグラヴロット(英語版詳細は「サン=プリヴァの戦い(英語版)」を参照 サンプリヴァ英語版)の戦い(またはグラヴロット(英語版)の戦い)は、西へ退却しようとするフランス軍阻止されマルス・ラ・トゥールの戦い翌日メス西方10kmの所で起こった普仏戦争最大戦闘である。 モルトケ元帥率いドイツ連合軍は、北ドイツ連邦プロイセン第1軍第2軍で、その兵力210歩兵大隊133騎兵大隊重砲732門よりなる将兵188,332であったフランソワ・アシル・バゼーヌ元帥率いフランスライン軍は、183歩兵大隊104騎兵大隊重砲520門よりなる将兵112,800名であり、南側のロゼリユ(Rozerieulles)町付近を左翼とし、北側サンプリヴァ右翼として、高地沿って塹壕掘って布陣していた。 8月18日午前8時、モルトケ第1軍第2軍フランス軍陣地への前進命じて戦闘始まった12時までに、マンシュタイン(Manstein)将軍第25師団砲兵共同してアマンヴィレー(Amanvillers)の前で戦端開いたフランス軍前夜から当日早朝にかけて塹壕射撃壕の構築時間費やした一方砲兵隊ミトラィユーズ隊は伏兵とした。最終的にフランス軍プロイセン軍前進気付き進軍中のドイツ軍集団に対して猛烈な射撃浴びせた戦闘初期の経過は、シャスポー銃有利さ生かしたフランス軍優勢に見えたしかしながら全鋼鉄製クルップ後装砲装備したプロイセン砲兵優れていた。 14時30分までに、第1軍司令官シュタインメッツ将軍は、マンス(Mance)渓谷を横切る形で第8軍団を一方的に前進させたが、フランス軍陣地からのシャスポー銃ミトラィユーズ射撃によって、プロイセン歩兵はすぐに渓谷の中で釘付けになってしまった。15時攻撃支援するためにドイツ軍第7軍団第8軍団の大砲砲撃開始した。しかし、攻撃立ち往生して危機瀕しているため、シュタインメッツ第7軍団前進命じ、更に第1騎兵師団もこれに続いた16時50分までに、プロイセン軍による南側での攻撃頓挫危機にあったため、プロイセン第2軍第3近衛歩兵旅団が、カロンベール将軍指揮下のサンプリヴァフランス軍陣地攻撃開始した17時15分プロイセン第4近衛歩兵旅団加わり、更に17時45分にはプロイセン第1近衛歩兵旅団加わったプロイセン近衛旅団攻撃全てフランス軍射撃壕や塹壕からの猛烈な銃火によってその場釘付けとなった1815分プロイセン第1近衛歩兵師団最後になる第2近衛歩兵旅団サンプリヴァ攻撃に加わることとなった一方シュタインメッツ第1軍予備最後部隊マンス渓谷を横切る攻撃命じた18時30分までに、第7軍団第8軍団の相当部分が戦線離脱し、ルゾンヴィル(Rezonville)のプロイセン陣地向けて退却した第1軍敗退受けてフリードリヒ・カール王子近衛師団攻撃までも失敗することは避けるためにサンプリヴァのカロンベールの陣地に対して大量砲撃命じた19時までに第2軍第2軍団第3師団師団長:エドゥアルト・フォン・フランゼッキー(英語版))は渓谷横切って進撃する一方第12軍団は近在のランクール(Roncourt)町を掃討して、第1近衛歩兵師団残存兵力と共に廃墟となったサンプリヴァ勢いのある攻撃をかけた。20時、プロイセン第2軍団の第4歩兵師団到着しプロイセン右翼マンス渓谷戦線膠着した。 この時までに、プロイセン第1近衛歩兵師団第12軍団、第2軍団サンプリヴァ占領し敗れたフランス軍退却余儀なくされた。プロイセン軍戦闘疲労困憊しており、フランス軍はここで反撃をかけることもできた。しかしながらシャルル=ドニ・ブルバキ(英語版将軍フランス軍古参近衛隊予備攻撃命ずる事を拒んだ。なぜなら、この時までに彼は全般的な状況をみて「敗北した」と考えていたためである。 22時までに、戦場銃火夜に向けて静まっていった。翌朝フランスライン軍は、戦闘弱ったプロイセン軍に対して攻撃掛けて戦闘再開するではなくメス退却した。 この戦闘での損害は、特に攻撃側プロイセン軍甚大であった8月18日戦闘で、合計20,163名のドイツ兵が戦死戦傷行方不明となったフランス軍損害は7,855名戦死傷、4,420名が捕虜となり(内半数負傷していた)、合計12,275であった大部分プロイセン兵はフランス軍シャスポー銃により斃され、大部分フランス兵プロイセンクルップ砲により斃された。損害細かくみると、フロサールのライン第2軍団損害621であった一方シュタインメッツ指揮下のプロイセン第1軍にPointe du Jourの前で4,300名の損害与えていた。プロイセン近衛歩兵師団損害はさらに驚くべき数字で、18,000名の内の8,000名を失っている。特別近衛猟兵700名の内、将校19名、下士官兵431損害受けた。第2近衛歩兵旅団将校39名、下士官兵1076名。第3近衛歩兵旅団将校36名、下士官兵1,060名。 フランス側は、サンプリヴァ守っていた部隊同村内で半数以上を失っていた。

※この「サン=プリヴァの戦い」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「サン=プリヴァの戦い」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。

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