サン=プリヴァの戦い
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グラヴロット サン=プリヴァ メス 戦いの関連地。サン=プリヴァ(英語版)とグラヴロット(英語版) 詳細は「サン=プリヴァの戦い(英語版)」を参照 サン=プリヴァ(英語版)の戦い(またはグラヴロット(英語版)の戦い)は、西へ退却しようとするフランス軍が阻止されたマルス・ラ・トゥールの戦いの翌日、メスの西方約10kmの所で起こった、普仏戦争で最大の戦闘である。 モルトケ元帥が率いるドイツ連合軍は、北ドイツ連邦のプロイセン第1軍と第2軍で、その兵力は210個歩兵大隊、133個騎兵大隊、重砲732門よりなる将兵188,332名であった。フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥が率いるフランスのライン軍は、183個歩兵大隊、104個騎兵大隊、重砲520門よりなる将兵112,800名であり、南側のロゼリユ(Rozerieulles)町付近を左翼とし、北側のサン=プリヴァを右翼として、高地に沿って塹壕を掘って布陣していた。 8月18日午前8時、モルトケが第1軍、第2軍にフランス軍陣地への前進を命じて戦闘が始まった。12時までに、マンシュタイン(Manstein)将軍が第25師団の砲兵と共同してアマンヴィレー(Amanvillers)村の前で戦端を開いた。フランス軍は前夜から当日早朝にかけて塹壕と射撃壕の構築に時間を費やした一方、砲兵隊とミトラィユーズ隊は伏兵とした。最終的にフランス軍はプロイセン軍の前進に気付き、進軍中のドイツ軍の集団に対して猛烈な射撃を浴びせた。戦闘の初期の経過は、シャスポー銃の有利さを生かしたフランス軍優勢に見えた。しかしながら、全鋼鉄製のクルップ製後装砲を装備したプロイセン砲兵は優れていた。 14時30分までに、第1軍司令官のシュタインメッツ将軍は、マンス(Mance)渓谷を横切る形で第8軍団を一方的に前進させたが、フランス軍陣地からのシャスポー銃とミトラィユーズの射撃によって、プロイセン歩兵はすぐに渓谷の中で釘付けになってしまった。15時、攻撃を支援するためにドイツ軍第7軍団、第8軍団の大砲が砲撃を開始した。しかし、攻撃は立ち往生して危機に瀕しているため、シュタインメッツは第7軍団に前進を命じ、更に第1騎兵師団もこれに続いた。 16時50分までに、プロイセン軍による南側での攻撃は頓挫の危機にあったため、プロイセン第2軍の第3近衛歩兵旅団が、カロンベール将軍指揮下のサン-プリヴァのフランス軍陣地に攻撃を開始した。17時15分、プロイセン第4近衛歩兵旅団が加わり、更に17時45分にはプロイセン第1近衛歩兵旅団も加わった。プロイセン近衛旅団の攻撃は全てフランス軍の射撃壕や塹壕からの猛烈な銃火によってその場に釘付けとなった。18時15分、プロイセン第1近衛歩兵師団の最後になる第2近衛歩兵旅団もサン-プリヴァ攻撃に加わることとなった。一方、シュタインメッツは第1軍予備の最後の部隊にマンス渓谷を横切る攻撃を命じた。18時30分までに、第7軍団と第8軍団の相当部分が戦線離脱し、ルゾンヴィル(Rezonville)のプロイセン陣地に向けて退却した。 第1軍の敗退を受けて、フリードリヒ・カール王子は近衛師団の攻撃までも失敗することは避けるためにサン-プリヴァのカロンベールの陣地に対して大量の砲撃を命じた。19時までに第2軍第2軍団の第3師団(師団長:エドゥアルト・フォン・フランゼッキー(英語版))は渓谷を横切って進撃する一方、第12軍団は近在のランクール(Roncourt)町を掃討して、第1近衛歩兵師団の残存兵力と共に廃墟となったサン=プリヴァに勢いのある攻撃をかけた。20時、プロイセン第2軍団の第4歩兵師団が到着し、プロイセン右翼のマンス渓谷の戦線は膠着した。 この時までに、プロイセン第1近衛歩兵師団、第12軍団、第2軍団はサン=プリヴァを占領し、敗れたフランス軍は退却を余儀なくされた。プロイセン軍は戦闘で疲労困憊しており、フランス軍はここで反撃をかけることもできた。しかしながら、シャルル=ドニ・ブルバキ(英語版)将軍はフランス軍古参近衛隊の予備に攻撃を命ずる事を拒んだ。なぜなら、この時までに彼は全般的な状況をみて「敗北した」と考えていたためである。 22時までに、戦場の銃火は夜に向けて静まっていった。翌朝、フランスのライン軍は、戦闘で弱ったプロイセン軍に対して攻撃を掛けて戦闘を再開するのではなく、メスへ退却した。 この戦闘での損害は、特に攻撃側のプロイセン軍で甚大であった。8月18日の戦闘で、合計20,163名のドイツ兵が戦死、戦傷、行方不明となった。フランス軍の損害は7,855名戦死傷、4,420名が捕虜となり(内半数は負傷していた)、合計で12,275名であった。大部分のプロイセン兵はフランス軍のシャスポー銃により斃され、大部分のフランス兵はプロイセンのクルップ砲により斃された。損害を細かくみると、フロサールのライン軍第2軍団は損害621名であった一方、シュタインメッツ指揮下のプロイセン第1軍にPointe du Jourの前で4,300名の損害を与えていた。プロイセン近衛歩兵師団の損害はさらに驚くべき数字で、18,000名の内の8,000名を失っている。特別近衛猟兵は700名の内、将校19名、下士官兵431の損害を受けた。第2近衛歩兵旅団は将校39名、下士官兵1076名。第3近衛歩兵旅団は将校36名、下士官兵1,060名。 フランス側は、サン=プリヴァを守っていた部隊は同村内で半数以上を失っていた。
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