マルズバーンの変質
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/29 03:43 UTC 版)
マルズバーンの職分は年月が経つと変化していった。マルズバーンはより小規模な領域を管掌し、行政支配の一部分を担うようになっていった。この将軍職が成立した初期の頃にマルズバーンにより治められていた主な地域としては、アルメニア(英語版)(Armenia)、ベート・アーラマイエー(英語版)(Beth Aramaye)、パールス(Pars)、キルマーン(Kirman)、スパハーン(英語版)(Spahan)、アートゥルパータカーン(英語版)(Adurbadagan)、タプルスターン(Tabaristan)、ニーシャープール(Nishapur)、トゥース(Tus)、サカスターン(Sakastan)、マーズーン(Mazun)、ハレーヴ(Harev)、マルヴ(Marv)、サラハス(Sarakhs)がある。ここで言及されたもののうち、いくつかは大ホラーサーン地方に属する。かなり大幅な自治が許されていた地域がある一方、カフカースの諸族と対峙する前線であったアートゥルパータカーンのように、軍事上の重要性が高い地域もあった。 マルズバーンには辺境地帯の統治が任されていたが、交易路の安全の確保を行うのもマルズバーンの任務であった。そのため彼らはベドウィン、エフタル、オグズといった遊牧民族の脅威と戦った。その一方で、ローマ帝国やクシャーナ帝国のような定住する外敵に対しても、防衛の最前線を維持した。フスラウ1世の統治時代(531 - 579)には軍制改革が行われ、スパーフベド(英語版)(spāhbed)が統治する4つのフロンティア(ホラーサーン、フワルワラーン、ネムロズ、アートゥルパータカーン)が設定された。スパーフベドはときおりマルズバーンと呼ばれ、しだいにより多くの中央の州の統治者に対しても、その言葉が用いられるようになった。また、かつての郷紳(独立自営的な地方エリート層)であるディフカーナーン(dihqānān)の台頭と貴族化が進み、サーサーン朝を支える重要な柱となった。しかしながら、この中央集権化の進展は、権力の軍事組織への移転を招き(ディフカーナーンはしだいに王朝への依存をしなくなっていき、4つの有力スパーフベド領は半ば独立した封土と化した。)、最終的に帝国の瓦解を導いた。 サーサーン朝の社会、行政、軍隊の構造と制度は、中世のイスラーム文明に受け継がれた。しかしながらマルズバーンに関しては、イラク地方のようにムカーティラ(muqātila)に置き換わって徐々に姿を消したケースもあれば、ホラーサーンのように特権を維持し続けたケースもあり、地域差が見られる。全体的に概観すれば、マルズバーンはディフカーナーン(dihqānān)に置き換わったとされる。 サーサーン朝以降の歴史において、アル=マルズバーニー(アラビア語: المرزباني, ラテン文字転写: Al-Marzubani)というニスバ(nisba (family title))を持つイラン系の家系が存在するが、これは彼らの先祖にマルズバーンだった者がいることを示している。例えば、高名なイスラーム法学者、アブー・ハニーファ(英語版)は、イスラーム法関連の文献資料ではヌゥマーン・イブン・サービト・イブン・ズーター・イブン・マルズバーン(アラビア語: نعمان بن ثابت بن زوطا بن مرزبان, ラテン文字転写: Nu'man ibn Thabit ibn Zuta ibn Marzubān)が公式な名前とされており、カーブルのマルズバーンの子孫であるという。カーブルは彼の父親の出身地でもある。また、タバリスターンのバーワンド朝(英語版)(西暦651年–1349年)の王族たちや、アゼルバイジャン〜アルメニア地方のサーッラル朝(英語版)(西暦919年–1062年)の王族たちは、彼らの名前の中でマルズバーンの称号を用いている。
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