マルズバーンの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/29 03:43 UTC 版)
マルズバーン(marzbān)という称号はパルティア帝国に始まると見られ、同帝国の前線地帯であったニサ(現トルクメニスタン共和国領、紀元前1世紀の遺跡)などで mrzwpn や dyzpty と記された称号の用例が見つかっている。おそらくは、mrzwpn の称号が前線の騎兵隊を率いる隊長を意味し、dyzpty の称号が砦の守備隊隊長を意味する。その一方で、ハハーマニシュ朝のダレイオス1世(紀元前550年-486年)の時代には、すでにマルズバーンがいたと考える研究者もいる。marzbān, spāhbed, kanārang, ostandar, pāygōsbān(パルティアの ptykwspn, サーサーン朝の paygospān 又は padhospān に相当)といった称号の間の正確な関係については不確かなところがいくつかある。史料では marzbān と spāhbed (将軍ないし太守を意味する言葉)との使い分けは曖昧で、ただ、marzbān が最前線の軍団なり地方なりに厳密に限定された称号であることは読み取れる。少なくとも明らかなのは、アバルシャフル地方における称号 kanārang との使い分けである。この言葉はイラン東部の言葉で marzbān から派生した言葉である。郡を守る者を意味する pāygōsbān という称号については、はっきりしたことがわかっていないが、地方軍団の指揮官か太守のようである。これは marzbān が前線や地方を守る者を意味することと対比される。おそらくは pāygōsbān と呼ばれる者は王朝の臣民に課せられる義務から免れたとみられる。ostāndār(オスターンダール) は ostān(オスターン) (スターン (地名)は州又はそれより狭い地方を意味する)の太守である。 一次史料からは marzbān が一州ないし複数の州を統べる者であったことが示唆されるが、マスウーディーがシャフルバラーズ(英語版)王(Šahrwarāz, 西暦629年)に対して用いた称号「帝国の四分の一」と同一視できるという証拠は、まったくない。marzbān の地位は、ほとんどの帝国の支配階級と同様に、世代を超えて父から息子へと譲られることによって、単系家族に世襲された。年功を充分に積んだ marzbān たちは銀の冠をかぶることが許され、アルメニア地方のように戦略上最も重要な前線地方の marzbān たちは金の冠をかぶることが許された。遠征時には、その地の marzbān は現地総指揮官と見なされ、それより地位の低い spāhbed は一個の部隊を率いる指揮官であったと考えられる。
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