ヒンデンブルク批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:23 UTC 版)
「テオドール・レッシング」の記事における「ヒンデンブルク批判」の解説
同1925年、彼は大統領の候補者たち、そして後には大統領選挙に勝ったパウル・フォン・ヒンデンブルクの人物素描を書いたが、彼はそこでヒンデンブルクを選ぶことについて気をつけるよう警告した。ヒンデンブルク自身については、おとなしくて知的に中身の乏しい人間として描かれているが、以下のようにレッシングは、そのヒンデンブルクの人間性の背後で危険な政治的力が働いているのを見ていた。 「プラトン以来、哲学者は民衆を導く者であるよう求められている。今やまさに哲学者は、ヒンデンブルクとともには王者の地位に登らないだろう。それはただ単に民衆を代表するシンボルであり、疑問符であり、ゼロである。皇帝ネロよりはまだゼロのほうがましだ、とは言えるかもしれない。だが、残念ながら歴史が教えてくれるのは、ゼロの背後にはいつも未来のネロが隠れている、ということだ。」 この記事のためにレッシングは、ドイツ・ナショナリズムおよび民族主義に傾く層から、憎しみに満ちた敵意を向けられた。生徒たちは「対レッシング戦闘委員会」を立ち上げ、彼の講義をボイコットするよう呼びかけたり、教授資格の剥奪と大学からの追放を要求したりして、彼の講義は暴力的に破壊された。それらの抗議に際して、反ユダヤ主義的背景があるのは明白だった。一般の民衆やとりわけ大学の環境からはわずかな支持しか得られず、特に、1926年6月7日におよそ1000人の学生たちがブラウンシュヴァイク工科大学へ向かって押し寄せたときには、同僚の教授たちはレッシング対立者側と連帯してその要求を支持した。1925/1926年冬学期に半年間休暇を取ったが、状況にまったく落ち着きが見られないので、レッシングとプロイセンの文部大臣カール・ハインリヒ・ベッカーは、1926年6月18日付で、レッシングの教授活動の停止と減俸のもとでの無期限休暇を取り決めた。
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