大戦後半の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 04:30 UTC 版)
1943年2月、師団の残余部隊を基幹に療養中の兵、交換兵からなる「第100猟兵師団戦闘団(Kampfgruppe 100. Jäger-Division)」がシャフティで編成された。リート・イム・イン(ドイツ語版)では、師団の残余部隊の一部から交換部隊が新設され帰還した兵員はそこに移された。数週間のうちに師団は完全武装され再編は完了した。 5月下旬、師団はクロアチアに移送され、この地における師団の駐留地はパルチザンによる襲撃が少なく、後方を撹乱されずに作戦に集中することができた。7月の初めに師団は1925年生まれの若い新兵を受け入れたが、その中にはドイツ語を解さないスロベニア人とポーランド人が多数含まれていた。7月から師団は対パルチザン戦のために動員されビロゴラとパプーク(英語版)とプスニ(英語版)山地に配置される。7月16日、師団はこの地域で活動していたパルチザン部隊の分断に成功するが、パルチザンの完全な掃討には至らなかった。8月下旬、師団はアルバニアに移され、師団はここでも1944年2月下旬までパルチザンとの戦闘に投入された。2月23日、第21山岳軍団(英語版)は師団をベオグラード地区に移すように命令し、3月3日には第297歩兵師団と交替し6日から列車でベオグラード北部の地域へ移動し、ハンガリー侵攻作戦に備えた。 3月23日、師団はブダペストへの侵攻命令を受け、そこに駐留していたハンガリー軍部隊を武装解除した。ブダペストに向かう途中、師団はブルツェザニー地区の第2SS装甲軍団に配属された。師団はその後、第2SS装甲軍団の一部としてストリパ(ロシア語版)へ向かいカームヤネツィ=ポジーリシクィイを制圧した。師団はその後、防衛のためにストリパの西岸に駐留する。師団は7月13日にブロードィ地域へ赤軍の攻勢が始まるまで留まり、7月15日にはソソスノフでの赤軍の攻撃が師団によって撃退された。7月19日、師団は8月20日夜にコロピエツ川(ロシア語版)への撤退命令を受け、カルパティア山脈を通っての撤退となった。7月22日に師団はリヴィウの保護地区に到達した。7月28日、師団はドリーナ(ロシア語版)地方のカルパティア山脈の麓を巡った3週間に渡る戦闘に勝利し、9月19日まで占拠していた。その後、師団は西へ後退し次に南西へと後退していった。9月22日、師団はサン地区を横断し10月にはチロカタル峠で戦い、10月下旬にはスロバキア・ハンガリー国境の「ルートヴィヒ線」に到達した。 1944年11月初旬、師団の担当地域は幾分落ちついており、戦闘は沈静化していた。11月25日、空軍から兵員が補充され最前線に移動しヘルラニー(英語版)の南部に展開していた。12月中旬から激しい戦闘が繰り広げられ1945年1月中旬に師団は、ポプラト地区への帰還命令を受け、師団はレボチャ経由でボッパルトに戻り補充再編され、そこから列車でオーバー・シュレージェンへ移された。ここでは郷土防衛大隊(Landesschützen-Bataillon)と国民突撃隊から人員を補充し師団は補強された。師団はヘイデブレックの北部に移送されコーゼル(英語版)地区に展開し、直ちに赤軍部隊との激しい戦闘が開始された。月末、師団はクラピッツ(英語版)地区に移ったが、シュレージェンにおける前線の部隊は別々に配備されていた。2月、師団はグロットカウ(英語版)に展開していたがその後ブレスラウの南方で激しい戦闘が勃発し、ヤウアー(英語版)を経由して撤退戦を行うことになる。師団は南下しボルケンハイン(英語版)、ランドシュット(英語版)、リバウを経由してトラウテナウ(英語版)地域に撤退し、終戦時に赤軍に降伏した。
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