日系アメリカ人被爆者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 15:20 UTC 版)
「広島原爆で被爆したアメリカ人」の記事における「日系アメリカ人被爆者」の解説
「広島県人の移民」も参照 捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が在住し、被爆した。またアメリカ系日本人としては、日本人との結婚で日本国籍を取得したのち、開戦直前に帰国した夫に同行して広島に在住していたところ、警察当局による軟禁状態のもと被爆した女性(1974年死去)の例が知られている。 伝統に則し、日系アメリカ人被爆者の多くは正式な日本のしつけを受けるため、日本に滞在していた(家族に会うため一時的に帰国していた者もいた)。真珠湾攻撃以降、彼らがアメリカに帰国することはかなわず、実に幾千もの名もなきアメリカ市民が原爆の永遠の被害者となった。広島では、日系アメリカ人被爆者が原爆の恐怖を体験し、多くが命を失い、家族を亡くし、身体的、精神的に深い傷を負った。終戦後、1947年初頭から約1000人(うち4分の3が女性)のアメリカ人被爆者がアメリカ(主にカリフォルニアとハワイ)への再移住を開始した。1970年代前半、原爆投下から約30年後、アメリカ人ヒバクシャ(原爆後生き延びた者を日本語ではこう呼んでいる)は、アメリカ政府に無料の医療保障を求める積極的戦いを開始した。医療費無償化のためのこの戦いのリーダーの一人が、ミツオ・イノウエであった。彼は原爆被害者を救済するための戦いを自分自身の一生をかけた使命の一つとした。アメリカ人被爆者の多くが魅かれたのは、無料の医療保障の経済的側面だけでなく、それに象徴される、アメリカというるつぼの中の彼らの永続的居場所であった。最終的に日系人被爆者は、米国政府から無料の医療保障を受けることはできなかった。その最大の理由は、アメリカ国内の認識や見解が、放射能の影響、アメリカ人被爆者は市民ではなく敵国人であるということ、医療費の無料化または減額措置によって持ち上がるであろう経済に留まらない問題について、千差万別だったからである。アメリカ人被爆者の体験には、困難かつ度重なる暗い苦しみが潜んでいた。家族を奪われ重傷を負った、すべての被爆者の脳裏を離れない残酷な体験だけでなく、社会的疎外や国からの拒絶があった。彼らはこの国を祖国と考えましたが、国は彼らを敵国人と見なした。そして彼らは差別の対象となった。数十年もの間、多くの被爆者はその事実を隠し通した。就職や結婚に不利になるのを恐れてのこと。1965年8月6日、広島の原爆の日、日系アメリカ人新聞の『羅府新報』および『加州毎日』に、「広島と長崎の全被爆者への呼びかけ」1という広告記事が掲載され、アメリカ人被爆者が団結する初期の一例が世間に公開された。アメリカ人被爆者コミュニティに変化が訪れ、1970年、ついに原爆被害者協会(CABS:Committee for A-Bomb Survivors)が設立された。このグループを介し、日系アメリカ人はようやく医療費の無料化とアメリカ政府からの認知を求める戦いに乗り出した。 相関関係があるとしても因果関係の有無は断定できなかったが、公民権運動の激化は、政府に医療保障を求める被爆者の戦いが始まる時期とちょうど重なった。アメリカ人被爆者は、彼らが期待したアメリカ政府からの賠償は受けらなかったが、結果的に日本政府からの支援を受け入れた。日本では1970年代まで、国籍に関わらず日本在住の全被爆者の医療費を無償とする法案が可決されていた。しかし、日本政府の医療保障を利用したアメリカ人被爆者はごく少数であった。 バラク・オバマの広島訪問に先駆け、2016年5月22日、米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバー4人が小東京の高野山米国別院に集まり会見を開いた。ASAによると、アメリカにはおよそ1000人の被爆者がいて、その多くが西海岸とハワイに暮らしているという。 1936年に帰米2世の両親のもとイースト・ロサンゼルスで生まれ、広島に住む祖父が病気で命が短いということで日本に会いに行った際、被爆した帰米3世ハワード蠣田は「謝るべきかどうか注目されているが、その必要はないし意味がない。あれからもう71年。オバマ氏が悪いのではない。謝るべきなのは原爆を落すと決めた当時のトルーマン大統領とその政権、そこに関わった人間だと思う」と述べている。 1927年にパサデナで生まれた帰米2世の据石和は、生まれて8カ月で広島に移り18歳で被爆した。幼少時の据石の目には、B-29は「天使のように踊っていてきれいな飛行機」に映っていた。そして、広島湾あたりで白い点が見えて、なんだろうと指をさすやいなや、黄色いオレンジ色の強い光が放れて、目と耳を手で覆った、と当時を思い返す。据石は「戦争には双方に責任がある。けんかは1人でできないし必ず相手があること。日本もアメリカも戦争が始まって、互いに厳しい生活を強いられた」とし、謝罪をする必要はないと話す。 1927年にカリフォルニアのアカンポで生まれ、7歳で広島に渡り広島工業専門学校の1年生だった18歳の時に被爆した難波亘は、日米関係がとても大切で、オバマ氏の訪問で広島の人たちがアメリカのことをより友好的で身近に感じるようになってほしいと思っており、「謝る必要は無くて、息子や家族を亡くした人たちを心から思っていることを表現することが大切」という。難波はアメリカに戻って朝鮮戦争に通訳兵として従軍したのち、航空技師として働いおり、オバマ大統領について「彼のような大統領を今まで見たことがない。伊勢志摩サミットのタイミングに関わらず、彼は長い間密かに訪問を計画していたのではないだろうか。強い賛否両論があったが、彼は決断した。彼は心の温かい人間だと思うし、とても感銘を受けた」と話す。 マウイ島で生まれ、 7歳で広島に移り18歳で被爆した更科洵爾はオバマが広島を訪問する様子をテレビで見て「被爆者として、同時にアメリカ国民としてとても嬉しかった。被爆者、アメリカ、日本をそれぞれきちんと立てて、政治的にもよくやったと思う。特に、献花し、亡くなった人たちに黙とうし、被爆者を胸に抱き寄せ、原爆資料館を訪問したシーンをみて感動した」とコメントした。 カリフォルニア州ローダイで生まれたヤマオカ・メイは9歳だった1938年に一家が日本に渡ったときのことを語った。1945年8月、ヤマオカは学徒動員で働いていた。原爆で命を落とさなかったのは、タバコ工場の中で高校の同級生と一緒に作業をしていた、13歳だった妹のマナさんは屋外で作業をしていた。ヤマオカさんと父親は長い捜索の末に、マナさんの遺体を爆心地の近くで見つけた。「私は米国人を少しも恨んではいない。あれは戦争だったし、両国とも自分たちは正しいことをしていると考えていた」「ただ、広島が原爆の標的となったのは不運だった。私たちは言わば一種のモルモットになった」と述べていた。
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