戦災による焼失と復興
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太平洋戦争末期、東京空襲が相次ぐと、不測の事態に備えて、本殿脇に宝庫(事実上の防空壕)を設営、御霊代を遷していた。昭和20年(1945年)4月13日深夜に空襲警報が発令され、翌14日未明、境内付近一帯にも焼夷弾が投下され始める。宿直の神職らが防火に努める一方、「猛火の内に御祭神を奉安するのは恐懼に耐えない」ことから、御霊代の遷座を決断、一部神職が御霊代を奉持して森を抜け、宝物殿に避難した。1時40分、動座が終わるとほぼ時を同じくして本殿がついに炎上、朝まで燃え続け、灰燼に帰した。この時本殿内陣に残されていた神物の一部は救出され、御霊代とともに宝物殿に収められた。16日には、御霊代は宝庫に還御する。17日には一般の参拝を再開したが、仮社殿もない状態であったので、焼け残った南神門を「拝所」として、神門を閉じて焼け跡を伺えないようにして対処した。29日の天長祭は、組み立て式の幄舎を祭場として急場をしのいだ。5月25日には第2回東京大空襲によって明治神宮では貴賓館と附属の禊ぎ場を焼失し、外苑の聖徳絵画館と野球場の一部も被災した。翌日にかけて勅使殿・斎館・社務所なども焼失した。 敗戦後、進駐軍による占領政策および戦前の反動により、明治神宮の参拝者は一時激減し、50人余りにとどまる日もあった。1946年(昭和21年)2月2日、宗教法人令改正により神社も宗教法人に加わることになり、翌日、宗教法人神社本庁が発足し、5月13日、宗教法人令に基づく明治神宮規則を届け出た。1948年(昭和23年)9月30日、神社本庁の通達に別表神社が掲載された。1951年(昭和26年)4月3日に宗教法人法が公布、10月22日に宗教法人明治神宮規則の登録が完了し、ここに宗教法人明治神宮が成立した。また、旧来の神社が持つ「氏子」を明治神宮は持っていなかったことから、これに代わる団体として崇敬者による団体を創設することが決定された。 昭和21年(1946年)5月31日、仮殿が竣工され、「仮殿遷座の儀」等の祭典が6日間にわたって執り行われた。翌6月1日より、閉じられていた南神門が一般参拝者に開放される。翌昭和22年(1947年)5月1日、第1回崇敬者大会が挙行され、秋の例祭とあわせて「春の大祭」として恒例となる。昭和27年(1952年)3月31日、レクリエーション施設として接収されていた外苑が翌日の独立回復に先立って返還され、あわせて神宮の機関として「外苑運営委員会」が設立された。 日本の主権回復と前後して、創建当初の社殿復興に対する機運が高まり、昭和28年(1953年)7月27日、「明治神宮復興奉賛会」が結成される(会長:宮島清次郎)。復興資金としては、創建時と同じく募金が幅広く募られ、法人募金、都内各地区、全国都道府県に合計6億円が呼びかけられた。結果、現金による募金だけでほぼ6億円に達し、物品奉納を含めると、目標額をはるかに上回る成果を上げた。また、在外邦人社会でも、奉賛会の設立、寄付があった。さらに、これも創建時と同じく、各地の青年団による勤労奉仕も行われた。 新社殿の設計を主に行ったのは、角南隆であった。新旧社殿の最大の差異は、本殿と拝殿とを隔てた中門を取り払ったことであった。旧来の神宮は、官吏や地方長官などの限られた人々が祭祀を行うことを目標としており、一般大衆は中門で祭祀の場から切り離されていた。しかし戦後の神社は、政府から切り離されて氏子崇敬者に開かれた神社となった。そのため中門による隔絶を取り払い、外拝殿(従来の拝殿)との間に新たに内拝殿を設けることで、祭祀と一般大衆との距離をより近づけようとしたのである。 昭和30年(1955年)4月1日、臨時造営部(角南隆部長)が発足、最大で150名の工員が全国から集められ、宝物殿近くに事務所・工場・寮などが設けられた。6月26日、岐阜県武儀郡七宗村の国有林にて木本祭が執り行われ、最初に切り出された本殿用の御用材については、9月11日、お木曳の式が行われた。新宿駅まで貨車で送られた御用材を崇敬会員やボーイスカウト、力士らが神宮宝物殿脇の貯木場まで手ずから搬入した。この式は、伊勢神宮の式年遷宮以外ではほぼ行われず、東京で行われるのは初めてのことであった。 旧本殿跡地では、同所にそのまま建てられた仮殿を南へ数十メートル移動させて、昭和31年(1956年)4月18日、地鎮祭が行われた。同月、復興奉賛会の名誉総裁に高松宮宣仁親王が推戴されており、高松宮も列席した。以降、宝物殿脇の作業場で調製された御用材は、特別に敷設されたトロッコ線路で本殿まで運ばれた。翌昭和32年(1957年8月24日)、上棟祭を迎える。 以降、屋根付工事や内部造作取付工事が行われる。この時、旧殿では檜皮葺だった本殿の屋根を銅板葺に改め、その他金具類は奉賛会が主となって社頭で献納運動が行われた。時の鳩山一郎内閣の全閣僚も銅板を奉納している。金具の取付作業がすべて終わったのは、遷座祭当日の朝であった。 昭和33年(1958年)10月31日夜、仮社殿から新本殿へ、遷座の儀が行われ、勅使室町公藤掌典、名誉総裁高松宮、明治天皇の皇女で存命の北白川房子、東久邇聡子ら参列。11月4日には昭和天皇が参拝したほか、14日まで都内各所で奉祝行事が行われた。
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