戦災による焼失と復興とは? わかりやすく解説

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戦災による焼失と復興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:23 UTC 版)

明治神宮」の記事における「戦災による焼失と復興」の解説

太平洋戦争末期東京空襲相次ぐと、不測の事態備えて本殿脇に宝庫事実上防空壕)を設営御霊代を遷していた。昭和20年1945年4月13日深夜空襲警報発令され、翌14日未明境内付近一帯にも焼夷弾投下され始める。宿直神職らが防火努め一方、「猛火の内に御祭神奉安するのは恐懼に耐えない」ことから、御霊代遷座決断一部神職御霊代を奉持して抜け宝物殿避難した。1時40分、動座が終わるとほぼ時を同じくして本殿がついに炎上、朝まで燃え続け灰燼に帰した。この時本殿内陣残されていた神物一部救出され御霊代とともに宝物殿収められた。16日には、御霊代宝庫還御する。17日には一般参拝再開したが、仮社殿もない状態であったので、焼け残った神門を「拝所」として、神門閉じて焼け跡伺えないようにして対処した29日天長祭は、組み立て式幄舎祭場として急場しのいだ5月25日には第2回東京大空襲によって明治神宮では貴賓館と附属禊ぎ場を焼失し外苑聖徳絵画館野球場一部被災した翌日にかけて勅使殿・斎館社務所なども焼失した敗戦後進駐軍による占領政策および戦前反動により、明治神宮参拝者一時激減し50余りにとどまる日もあった。1946年昭和21年2月2日宗教法人改正により神社宗教法人に加わることになり、翌日宗教法人神社本庁発足し5月13日宗教法人令に基づく明治神宮規則届け出た1948年昭和23年9月30日神社本庁通達別表神社掲載された。1951年昭和26年4月3日宗教法人法公布10月22日宗教法人明治神宮規則の登録が完了し、ここに宗教法人明治神宮成立したまた、旧来の神社が持つ「氏子」を明治神宮持っていなかったことから、これに代わる団体として崇敬者による団体創設することが決定された。 昭和21年1946年5月31日仮殿竣工され、「仮殿遷座の儀」等の祭典6日間わたって執り行われた。翌6月1日より、閉じられていた南神門一般参拝者開放される。翌昭和22年1947年5月1日第1回崇敬者大会挙行され、秋の例祭あわせて「春の大祭」として恒例となる。昭和27年1952年3月31日レクリエーション施設として接収されていた外苑翌日独立回復先立って返還されあわせて神宮機関として「外苑運営委員会」が設立された。 日本主権回復前後して創建当初社殿復興対す機運高まり昭和28年1953年7月27日、「明治神宮復興奉賛会」が結成される会長宮島清次郎)。復興資金としては、創建時同じく募金幅広く募られ法人募金都内各地区、全国都道府県合計6億円が呼びかけられた。結果現金による募金だけでほぼ6億円に達し物品奉納含めると、目標額をはるかに上回る成果上げたまた、在外邦人社会でも、奉賛会設立寄付があった。さらに、これも創建時同じく各地青年団による勤労奉仕行われた新社殿の設計を主に行ったのは、角南隆であった新旧社殿最大差異は、本殿拝殿とを隔てた中門取り払ったことであった旧来の神宮は、官吏地方長官などの限られた人々祭祀を行うことを目標としており、一般大衆中門祭祀の場から切り離されていた。しかし戦後神社は、政府から切り離され氏子崇敬者開かれた神社となった。そのため中門による隔絶取り払い外拝殿従来拝殿)との間に新たに内拝殿設けることで、祭祀一般大衆との距離をより近づけようとしたのである昭和30年1955年4月1日臨時造営部(角南隆部長)が発足最大150名の工員全国から集められ宝物殿近く事務所工場・寮などが設けられた。6月26日岐阜県武儀郡七宗村国有林にて木本祭が執り行われ最初に切り出され本殿用の御用材については、9月11日お木曳の式が行われた。新宿駅まで貨車送られ御用材崇敬会員ボーイスカウト力士らが神宮宝物殿脇の貯木場まで手ずから搬入した。この式は、伊勢神宮式年遷宮以外ではほぼ行われず東京行われるのは初めてのことであった。 旧本殿跡地では、同所そのまま建てられ仮殿南へ数十メートル移動させて、昭和31年1956年4月18日地鎮祭が行われた。同月復興奉賛会名誉総裁高松宮宣仁親王推戴されており、高松宮列席した以降宝物殿脇の作業場調製された御用材は、特別に敷設されトロッコ線路本殿まで運ばれた。翌昭和32年1957年8月24日)、上棟祭迎える。 以降屋根工事内部造作取付工事が行われる。この時、旧殿では檜皮葺だった本殿屋根銅板葺に改め、その他金具類は奉賛会が主となって社頭献納運動が行われた。時の鳩山一郎内閣の全閣僚銅板奉納している。金具取付作業がすべて終わったのは、遷座祭当日の朝であった昭和33年1958年10月31日夜、仮社殿から新本殿へ、遷座の儀が行われ、勅使室町公藤掌典名誉総裁高松宮明治天皇皇女存命北白川房子東久邇聡子参列11月4日には昭和天皇参拝したほか、14日まで都内各所奉祝行事が行われた。

※この「戦災による焼失と復興」の解説は、「明治神宮」の解説の一部です。
「戦災による焼失と復興」を含む「明治神宮」の記事については、「明治神宮」の概要を参照ください。

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