戦災とその復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)
第二次世界大戦は次第に激化していったものの、1941年(昭和16年)頃までは軍需景気もあって旅行が盛んで、不要不急の旅行を止めるよう呼びかけが行われ、多客期には急行列車の乗車制限も行われていた。対米開戦後は特急・急行券は軍務・官公庁・軍需産業関係者に優先発売とされる措置が取られた。1942年(昭和17年)10月6日には戦時陸運非常体制要綱が決定されて沿岸船舶輸送の貨物が鉄道に転嫁され、ますます旅客輸送は逼迫していくことになった。東京駅職員にも出征者が相次ぎ、要員不足のために女性の採用が大幅に拡大されていった。1944年(昭和19年)4月1日には決戦非常措置要綱が決定され、長距離の移動には旅行証明書が求められ、短距離の移動への利用も制限し、特急・一等車・寝台車・食堂車が全廃されるなど大幅な制限が実施されるようになった。1945年(昭和20年)3月20日のダイヤ改正ではついに急行列車も東京 - 下関間の1往復のみを残して全廃された。 1944年(昭和19年)も末になるといよいよ空襲が激しくなり、列車の運行が阻害されることが多くなっていった。特に1945年(昭和20年)3月10日に連合国軍機によって行われた東京大空襲では、翌日被災者が東京駅に殺到し、東京都職員の発行する罹災証明書を受けて地方への疎開が行われた。5月25日22時30分頃から約2時間半に渡ってB-29約250機による東京空襲が行われ、この際に丸の内駅舎降車口(北口)付近に焼夷弾が着弾して炎上した。駅員総出で消火活動に当たったものの火勢が強く駅舎全体に延焼したため、重要書類の搬出と旅客の避難に努めた。その後2時過ぎに第1プラットホームへ延焼が始まり、第2・3プラットホームへも広がっていった。鎮火したのは26日の朝7時頃で、最終的に丸の内駅舎、第1プラットホームのすべて、第2プラットホームの大半、第3プラットホームの事務室・待合室、第4ホームの一部、電車信号扱所などを焼失した。しかし駅員・乗客ともに1人の負傷者も出すことが無かった。即日復旧工事に着手され、翌27日には第3ホームを利用して5本のみであるが列車の運転が再開された。この日は乗車260人、降車350人、乗車券の発売7枚、収入117円であったと記録されている。28日には第2プラットホーム3・4番線の復旧が完了して電車の運転が再開され、長距離列車は15本が運転されたが中央線・横須賀線は運休のままであった。29日には単線運転で中央線が列車を使用して運転再開し、30日から中央線が複線での電車運転を再開した。31日には京浜線・山手線が所定運行に復旧し、横須賀線が運転を再開した。そして6月2日に始発から全列車が所定の運転に復旧することになった。乗車券の発売などはバラックを建てて行っていたが、駅舎もホームも屋根が無く、雨の日には傘を差して列車を待たねばならなかった。6月20日8時30分頃には1機のみで侵入したB-29が八重洲口から500 mほど離れた場所に250 kg爆弾を投下し、多くの窓ガラスが割れるなどの被害を出した。 1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎えた時点で鉄道は戦時中の酷使や空襲被災で極端に疲弊した状態にあったが、残された数少ない交通機関として進駐軍輸送や復員輸送に取り組まなければならなかった。進駐軍対応としては東京駅でも、9月15日にまず乗車口にRTO(進駐軍の輸送事務所)を設置し、12月20日にRTO待合室と事務室が完成した。10月1日から戦災復旧工事に本格着手した。丸の内駅舎については、屋根組の鉄骨は焼けただれて垂れ下がり、床板コンクリートも穴だらけになっているような状態であった。被災度が激しく構造体の鉄骨や煉瓦の強度に不安の持たれるところであったが、東京大学教授の武藤清の総合診断を受け、最終的に当時の運輸省建築課長伊藤滋の裁断により、赤煉瓦部分をできるだけ残しつつ被害の大きな3階を取り壊して2階建てにし、乗車口・降車口のドーム丸屋根はピラミッド型に、屋根の複雑な塔を廃して直線的にし、入手困難な鉄骨のかわりに木の角材を用いて工事を行うことになった。屋根の復旧では陸軍から運輸省建築課に移ってきた高山馨が木造トラスの設計を行い、木材を組み合わせジベルと釘で接合した工法を採用している。屋根葺材はトタン板を亜鉛メッキして使用しペンキ塗り仕上げされたが、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)にかけて登米産天然スレートで葺き替えられている。屋内天井では今村三郎の設計により、戦争終結で航空機用のジュラルミンを容易に入手可能であったことから鉄骨で裏打ちしたジュラルミン張りペイント仕上げとされた。4 - 5年、長くても10年持てばよいとの考えで設計されたものであったが、結局21世紀に入ってからの復原工事まで60年近くに渡って用いられることになった。この2階建てにする復旧工事は1947年(昭和22年)3月15日に完成し、以降内装などの復旧を順次進めて行った。 丸の内駅舎の乗車口側にRTOの設備は応急で完成していたが、より本格的なものを造るように指示を受け、南口の旧三等待合室に本設を行うことになった。まだ完全な復旧のなっていない丸の内駅舎の中でここだけは別世界で、大理石張りのカウンターやゆったりとしたソファなどまばゆいばかりの設備を持っていた。特に浮彫の壁画は中村順平が原画を描き、本郷新率いる若手グループが彫り上げた作品で、RTOとしての使用が終わった以降も大切に保存された。RTOは1947年(昭和22年)5月1日に完成して使用開始されたが、講和条約後返還され特別待合室となり、その後駅務室などとして使用されてきた。壁画はその後丸の内駅舎復原工事に伴い保存展示されることになり、2012年(平成24年)9月24日から京葉線八重洲改札付近に移設されて公開されている。 一方の八重洲駅舎は焼失を免れたため、駅機能はしばらくの間八重洲側に集中することになった。日本橋・京橋方面の復興が早く乗降客数の増加が著しかったこともあり、総工費2000万円余りをかけて当時としてはスマートな木造2階建ての駅舎が1948年(昭和23年)11月16日に完成し、面目を一新した。ところが完成して半年ほどの1949年(昭和24年)4月29日10時30分頃、駅舎内日本食堂の1階工事現場から工事人夫のタバコの火の不始末により出火した。工事用の壁により付近の通行人が発見できず、第5プラットホーム上の駅員が発見したときには既に手の施しようがないほど火が広がっており、消防車などが駆けつけて消火活動を行って1時間後の11時30分頃に鎮火したものの、駅舎のほぼ全部と東京車掌区、宿舎3棟を全焼してしまった。損害額は約1億円に達した。 この他、第1プラットホームから第4プラットホームまでの運転事務室や信号扱所などが戦災で焼失していたため復旧工事が行われた。また終戦後まで八重洲側には外堀が残されていたが、戦災の残骸整理を行うために付近の住民が無秩序に外堀に瓦礫を捨て始めたことから、東京都で急遽瓦礫捨て場を指定してその範囲での外堀の埋立を行うことになった。大戦前には外堀の埋立ができれば理想的な駅舎および駅前広場を建設できるが到底許可が得られない、と関係者を嘆息させていたのであったが、こうして外堀の埋立ができることになり、1947年(昭和22年)11月20日に埋め立て工事が完成した。さらにこの埋め立て工事に際して、得られる用地を将来八重洲駅舎や線路の増設に利用できるように鉄道側から東京都に対して申し入れがなされ、結果的にこの時に確保した用地は後に新幹線に役立てられることになった。 東京鉄道ホテルは、3階の床が残っており雨露をしのげることから、戦災後2日目から簡易ベッドを2階に並べて仮営業を開始した。運輸省は国鉄本体の復旧に集中する方針となったことから付帯事業は外部委託を進める方針とし、12月1日に日本交通公社に委託された。しかしそのまま使える状態ではなく、復旧しても連合軍に接収される恐れが強いとして、12月1日から当面の間休業とされることになった。その代りに1946年(昭和21年)3月20日から東京駅と丸ビルを結ぶ地下道に簡易ベッドを並べて宿泊所とし、後に「東京丸ノ内ホステル」と称した。この営業は1949年(昭和24年)1月下旬まで続けられた。 戦災復興後も赤煉瓦は焼けた状態のままとなっていたが、赤煉瓦を磨き上げて綺麗にする工事がサンフランシスコ講和会議を目前に始められた。しかしこの際に、工事中の物価上昇により予算不足となってしまい、追加予算が認められなかったことから、表側のみ磨き上げて線路に面した側はモルタルで塗り潰すことになってしまった。当時の建築家からも、表さえよければ裏はどうでもよいという日本人のさもしい考え方を日本の代表駅に表現してしまったと、手厳しい批判を浴びることになってしまった。これについて、戦災復旧工事に携わった関係者は、単に戦災復旧は一時的なものだと考えていたから、後で本復旧するまで仮の復旧でよいとしてこうなったものであって、予算不足だったからではないと主張している。ただし予算不足が理由と記述している『東京駅々史』では、この作業は戦災復旧のときではなく、その後別に外装工事をするときの話であると説明しており話が食い違っているところがある。結果的にこのモルタルは、21世紀に入ってからの復原工事によって撤去されるまでそのままであった。 丸の内駅舎では、南側を乗車口、北側を降車口とする一方通行を続けてきたが、混雑緩和のために1948年(昭和23年)6月20日、どちら側からでも乗降できるように変更した。ただし乗車口・降車口という名前はそのままであり、これを丸の内南口、丸の内北口、そして従来の中央口を丸の内中央口と改めたのは1959年(昭和34年)11月1日となった。
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