戦火と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 08:57 UTC 版)
1001形各形式が登場した1930年代後半は、それまでの不況を脱して企業の設備投資が積極的に行われ、阪神間の海岸部に多くの工場が進出することとなった。また、これらの工場は1937年に勃発した日中戦争の拡大を受けて軍需を中心に生産が増加、これが更に工場の新設と増築を促したほか、これらの工場に通勤する労働者が急増したことから、最寄の交通機関である阪神各線の輸送需要も急増した。 この動きは太平洋戦争開始後も続くが、その頃になると軍需中心に資材が割り当てられたため、大戦末期には主電動機をはじめとした電装品や軸受などの消耗品を中心に資材不足に悩まされるようになった。そのような中でも輸送力増強への努力は続けられ、1943年11月に川西航空機本社工場への通勤・資材輸送路線として武庫川線武庫川 - 洲先間が開業した際には1121形1121 - 1126の6両がドア間の座席を撤去されて同線専用車となった。定員は82人から94人に増加した。 翌1944年8月に国道線との連絡のために武庫大橋まで延長された際には運転区間を同駅まで延長、強風・紫電・紫電改といった戦闘機や二式飛行艇といった海軍向けの航空機の増産に追われていた同工場に、国道線、阪神本線で運ばれた工場通勤者をぎりぎりまで詰め込んでピストン輸送を行った。 しかし、戦争末期の1945年に入ると、直接戦災に遭うだけでなく、事故や部品不足による修繕不能によって動けない車両が続出するようになった。3月13日夜の大阪、3月17日夜の神戸両都市への大空襲は幸いにして大きな被害を免れたが、それから約1ヵ月後の4月23日未明(午前4時ごろ)、三宮駅構内に留置していた車両から出火、37両中26両が全半焼する被害を受け、1001形も1012・1142・1147の3両が被災、全焼した。続いて6月には1日の大阪大空襲を皮切りに、5日の神戸大空襲で両都市の焦土化を図るとともに15日には尼崎が空襲されるなど、1ヶ月だけで6回も空襲される有様だった。中でも6月5日の神戸大空襲では昼間空襲だったこともあり、御影駅停車中の1131が全焼、1010が半焼といった被害を受けたほか、東明車庫が被災したことによって1001形各形式からは4両が全焼したほか、6月15日の尼崎空襲では1139が半焼した。このほか8月6日の阪神間全域を狙った空襲において1124が武庫川駅構内で半焼している。 この他にも、終戦までの間に事故や故障による運転不能車は続出し、終戦直後の9月17日に来襲した枕崎台風によって阪神間に高潮被害が発生、沿線の地盤沈下がひどいこともあって尼崎車庫が水没、1001形各形式のうち6両が冠水、運転不能となった。このように運転不能車両が続出したことと、1001形各形式が搭載する主電動機であるGE-203Pの故障率が高かったことから、1001形の運転可能車で3両編成を組む場合はMc+Tc+Mcと、部品不足による電装解除車を中間に組み込んだ編成を組成したほか、余裕のあった急行系車両を普通運用に投入することで急場を乗り切った。また、1001形の運転台側の連結器が整備不良で外れ、バラストに突き刺さった連結器によって脱線する事故が発生したことから、同形の運転台側の連結器を取り外した。1129・1130や1141形の凝った照明も、1946年以降他形式もチューブランプ化されるにつれて、他形式同様天井取り付けの平凡なものに取り替えられていった。 このように車両をやりくりしていく一方で、復興への動きも着実に進んでいた。事故や戦災で全焼した車両のうち、1001形各形式のうちすぐに復旧できないと見込まれた9両を1946年6月29日付で廃車、現車は構体に錆止め塗装を施されて尼崎車庫の構内に留置されていた。その後、1002と1012を除いては復旧のめどが立ったことから翌1947年には1002と1012を除く7両の廃車申請を取り下げ、1949年に電動車として完全復旧した。その際、明かり窓を取り付けていた車両は、明かり窓を埋められて復旧している。 この時期になると他の車両も戦前のレベルを回復し、同年には武庫川線用として座席が撤去されていた1121 - 1126も座席を復元された。また、1947年4月ごろから数年間は窓周りに淡いクリームイエローを塗ったツートンカラーで走っていたほか、側面の車番表記も現在と同じ縦長のゴシック体に変更された。そして、1950年と1956年には801形が搭載する手動加速式のMK制御器を取り替えるため、1101・1111・1121(1121 - 1129)各形式の制御器を油圧カム軸式の東芝PM-2Bに取り替え、捻出したRPC-50及びPC-5を801形に換装した。この他にも尾灯の2灯化に伴い、1950年代前半から全車通風口の位置に尾灯を増設し、1955年には電気ブレーキ試験車の1019・1020が保守に手間のかかることから、同車の電気ブレーキを撤去する改造を実施している。
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