大正から昭和初期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:23 UTC 版)
大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気、吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界、などから低迷した。 漫才は、エンタツやアチャコが大学野球のラジオ中継から『早慶戦』を創作するなど時代に即する新しい笑いを創造した。落語は内部抗争で秩序が整わず、林正之助をはじめとする吉本興行部は商品価値が無いと見なされ、旧態依然の古い芸に安住して愛好家が離れた。初代春團治は、洒落を盛り込んだ不条理に加えて新しい媒体であるレコードを活用した演出で、唯一新しい笑いを提供して多くの愛好家を獲得し、今日の上方落語に大きく影響したが、孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死で上方落語は漫才に王座を譲ったと見られた。この状況に危機感を持った5代目笑福亭松鶴、は大阪市東成区今里の自宅を本拠地に、4代目桂米團治、初代橘ノ圓都、2代目立花家花橘、初代桂春輔、三遊亭志ん蔵ら同志を集めて「楽語荘」を結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。 戦時中の漫才師や漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などへ派遣されたが、座して演ずる落語家は兵士に対して酷なので呼ばれず、比較的空襲が少ない神戸や京都などで富裕層や芸者を客として落語会を催して好評を得た。
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