戦前期の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 18:02 UTC 版)
客戸制研究に先鞭を付けたのが加藤繁である。加藤は、宋代の戸口(世帯と人口)統計に主戸・客戸の別があることに注目し、両者の違いは何か、という問題意識から客戸の意味を探求した。加藤は不動産の有無を基準として主戸・客戸が区別されたと主張し、これは後に税産基準と呼ばれることになった。また、両者が実態概念上何を指すかについては、主戸は自作農、客戸は小作人であったとしている。さらに、史料に見える主客戸の数を統計にまとめ、両浙等の地域では客戸の比率が低くて主戸は高く、夔州(きしゅう)・荊湖・京西等の地域では客戸の比率が高く、主戸は低いという傾向が見られることを指摘した。高橋は従来の研究者の見解に見られる方法上の欠陥として、第一に主戸・客戸は制度概念、佃戸を実体概念として区別して考察すべきところを、三者を同一線上に扱って混乱をもたらしたこと、第二に史料として挙げられた各種帳簿類の、それぞれの目的・性格や記載形式を無視し、その帳簿に名が記載されることの意味を検討してこなかったことを指摘した。 続いて高橋は以下のような主張を展開した。すなわち、帳簿類を個別に検討すると、保甲簿には客戸の戸名が記載されているが、両税の徴収に使われた夏秋税租簿に戸名が記されたのは主戸に限られ、客戸の戸名は記されていなかった。つまり、税役法上客戸を戸として掌握する必要のある帳簿には客戸も戸名を持ち、その必要のない帳簿には戸名を持たなかったことになる。また、農民の戸等を示す帳簿に五等簿があるが、五等簿に記載された戸名は税産所有者の名義を意味するものであり、五等簿上に戸名を持つということは税産所有者、すなわち主戸であることを意味する。したがって、主戸・客戸の区分は税産の獲得を基準とするとして、税産基準説を支持した。また、耕作田土の所有を公認される前は「無田無税」であるから客戸、公認後は「有田納税」であるから主戸、というように峻別して扱われるのであり、戸籍法上「有田無税」の客戸、「有田納税」の客戸の存在は認められないとして、草野・柳田説を退けた。 高橋の学説は方法上の確実性と内容上の説得力に富むもので、現在に至るまで有力なものと見なされている。
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