戦前黄金時代
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「東海道本線優等列車沿革」の記事における「戦前黄金時代」の解説
1929年(昭和4年)9月 特急1・2列車に「富士」(ふじ)、3・4列車に「櫻」(さくら)という愛称が付けられた。これが日本における「列車愛称」の始まりである。 1930年(昭和5年)10月 東京駅 - 神戸駅間に新しく特急「燕」(つばめ。11・12列車)の運転を開始。 同列車は「超特急」と人々から呼ばれ、その名の通りそれまでの特急「富士」・「櫻」が東京駅 - 大阪駅間を11時間弱、急行列車が12時間前後で運行していた中、同区間を8時間20分で結んだ。翌年12月からは続行運転の臨時列車も運行するようになる。なお「燕」は洋食堂車連結であったが、一・二・三等の各等車両を全て連結した。またこの時それまでの「富士」・「櫻」もスピードアップが行われ、前述した東京駅 - 大阪駅間の所要時間を9時間前後とし、約2時間を一気に短縮した。 この時点までに東海道・山陽本線を走る急行列車の列車番号が整理され、次のように東京駅 - 神戸駅間の定期急行列車は基本的に10番台の番号を用いることとなった。また、これらは全て夜行列車であった。 13・14列車 三等急行、和食堂車を連結。後述する17・18列車とは対照的な輸送力重視の列車であった。15・16列車 一・二・三等急行、一等・二等寝台車と和食堂車を連結。17・18列車 一・二等急行、一等・二等寝台車と洋食堂車を連結。また毎週金曜日発の列車に限り東京駅 - 米原駅間で敦賀港駅発着の一等・二等寝台合造車を連結。 ※編成中1両の二等座席車と食堂車・荷物車・郵便車以外全て一等・二等寝台車で編成された列車の性格上、政財界の要人や芸能人、エリートサラリーマンが主たる利用者だったため、「名士列車」とも呼ばれた。19・20列車 二・三等急行、二等寝台車と和食堂車を連結。 1931年(昭和6年)2月 それまでの寝台車は一等・二等のみであったが、この時三等寝台車が登場。初めは東京駅 - 神戸駅間の急行13・14列車と19・20列車に連結され、12月より「櫻」と急行15・16列車にも連結されるようになる。 1934年(昭和9年)12月 丹那トンネルの開通により、東海道本線国府津駅 - 沼津駅間のルートがそれまでの御殿場経由から熱海経由に変更となって、距離は12km短縮、勾配はそれまでの25‰(パーミル)から10‰に緩和されたため、これに伴いダイヤ改正が実施された。これにより、東京 - 大阪間の所要時間は特急「燕」で約20分、「富士」・「櫻」で30 - 40分、急行列車で35 - 40分も短縮されることとなった。 「富士」に三等車、「櫻」に二等車が連結されるようになり、続行運転は取りやめられて運転間隔を1時間30分とした。また「燕」も編成を増強、臨時「燕」は運転日数を増やし不定期列車とされた。 これにより「富士」は朝鮮の釜山への関釜連絡船へ接続し、釜山からは朝鮮総督府鉄道で京城を経由し満州国の新京へ南満州鉄道で向かう列車へ連絡していて、さらにウラジオストク、北京、莫斯科(モスクワ)、巴里(パリ)、羅馬(ローマ)、倫敦(ロンドン)、伯林(ベルリン)などへ向かうことができ、その他にも関門連絡船で海を渡った門司駅から長崎駅への急行列車と接続し、そこから上海への航路(日華連絡船)と接続するなど、前述した国際連絡運輸の一環をなす列車へ、「櫻」は同じ門司駅から九州の鹿児島・宮崎方面の列車と接続へと、それぞれ役割分担が図られるようになった。 同時に急行列車の一等車も整理され、15・16列車は一等寝台車を17・18列車に移して二・三等急行になったほか、17・18列車が東京駅 - 米原駅間で連結していた敦賀港駅発着の一等・二等寝台合造車は廃止、代わって19・20列車の東京駅 - 米原駅間に敦賀港駅発着の二等寝台車が連結となった。 1936年(昭和11年)12月 不定期二・三等急行1019・1020列車(二等・三等寝台車、和食堂車連結)が東京駅 - 大阪駅間に新設される。この列車は編成中に二等寝台車1両、三等寝台車5両を連結という寝台車比率の高いものであった。 1937年(昭和12年)7月 この月の1日に行われたダイヤ改正で、東京駅 - 神戸駅間に新たに特急列車「鷗(かもめ)」が新設される。「櫻」を30分先行する時刻で運転され、一・二・三等各車両と洋食堂車で編成された。同区間を走る「燕」、同時間帯を走る「富士」・「櫻」の補助的性格が強い列車であり、展望車は1939年(昭和14年)3月まで連結が見送られ、利用率次第ではすぐに臨時列車へ格下げする予定であったといわれる。この「鷗」の設定されたころが、戦前の鉄道の最盛期であった。しかしながら同列車の設定された6日後の7日に盧溝橋事件が起こって日中戦争が勃発し、日本は次第に戦時体制に突入して行き、鉄道を取り巻く環境も変化していくこととなった。 「鷗」新設と同時に東京駅 - 大阪駅間に二・三等急行1033・1034列車(二等・三等寝台車、和食堂車連結)が新設される。この列車が設定されたことで不定期急行1019・1020列車に連結の三等寝台車は両数を削減、食堂車の連結も廃止されたほか、東京駅 - 神戸駅間の急行19・20列車は運転区間を東京駅 - 下関駅間に延長、急行19・14列車となったため急行13・14列車は13・16列車、急行15・16列車は15・20列車に列車番号を変更、ダイヤ改正前の13・14列車時代は食堂車と荷物車以外三等車(寝台車含む)のみで編成されていた13・16列車にも二等寝台車が連結されるなど急行列車の再編が行われた。
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戦前黄金時代
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「山陽本線優等列車沿革」の記事における「戦前黄金時代」の解説
1929年(昭和4年)9月 1・2列車に「富士」、3・4列車に「櫻」という愛称が付けられた。これが日本における「列車愛称」の始まりである。 1930年(昭和5年)10月 東海道本線に特急「燕」(つばめ)が新設され、同時に「富士」・「櫻」や急行列車も大幅なスピードアップが図られる。 1934年(昭和9年)12月 山陽本線の麻里布駅(現在の岩国駅) - 櫛ケ浜駅間のルートは、それまで海岸沿いの柳井駅を経由するものであったが、このとき山沿いを経由する路線(岩国駅(現在の西岩国駅)・周防花岡駅経由、現在の岩徳線ルート)が完成して同経路が新しく「山陽本線」とされ、旧ルートは支線の「柳井線」となった。これに伴うダイヤ改正では特急「富士」・「櫻」は新ルート経由となったが、急行列車は新ルートの線路容量が単線で少ないことや、勾配が若干急であること(最大10‰)、港町であった柳井の重要性が未だ高かったことなどから、全3往復のうち1往復は柳井線経由で残された。またこのとき東海道本線や長崎本線でも大幅なルート変更が行われており、日本各地のどの優等列車も軒並みスピードアップされた。そしてこのころが、戦前の鉄道黄金期であった。この改正当時の山陽本線優等列車の概要は、下記のとおりである。 特急列車 下記の2往復。 「富士」 東京駅 - 下関駅間運転。この改正でそれまでの一・二等車のみであった編成を改め、三等車が連結されるようになった。しかしながら高級列車であることは変わらず、また満州からロンドン・ローマに至るまでの国際連絡運輸の一環をなす列車でもあったため、最後尾には一等展望車が連結されるなど、日本の威信を象徴するような設備・装飾が施されていた。 「櫻」 東京駅 - 下関駅間運転。この改正でそれまでの三等車のみであった編成へ、二等車が新たに連結されるようになる。 急行列車 定期列車は一・二・三等急行1往復、二・三等急行2往復の計3往復設定。いずれも東京駅 - 下関駅間の設定で、1往復(二・三等急行9・10列車)は山陽本線内で夜行運転、残り2往復(二・三等急行5・6列車、一・二・三等急行7・8列車)は昼行運転であった。3往復とも寝台車・食堂車を連結していたが7・8列車は、「富士」同様国際連絡運輸の一環をなしていて、山陽本線の優等列車では「富士」以外では唯一一等寝台車と洋食堂車を連結するほか(他列車はすべて和食堂車)、京都 - 下関駅間では一等展望車も連結していた。また下りの5列車と上りの8列車は、前述した柳井線を経由する列車であった。このほか不定期列車として東京駅 - 下関駅間に二・三等急行1005・1006列車(二等寝台車・和食堂車連結、山陽本線内は夜行)と二・三等急行1009・1010列車(二等寝台車・和食堂車連結、山陽本線内は昼行)が運転されていた。 1935年(昭和10年)11月 呉線の三原駅 - 海田市駅間が全通し、急行7・8列車が同線経由となる。以後呉線は、山陽本線が瀬野駅 - 八本松駅間に22.6‰の「瀬野八」と呼ばれる急勾配区間を抱えていて、補助機関車(補機)を必要とするなど輸送力の障害となっていたことなどから、同線のバイパスルートとしての役割も担う事になった。 1937年(昭和12年)7月 東海道本線に特急「鷗」(かもめ)が新設されたのと同時に東海道・山陽本線の急行列車も再編され、それまでの東京駅 - 神戸駅間二・三等急行19・20列車を東京駅 - 下関駅間に延長、二・三等急行19・14列車(山陽本線内は昼行)となったことで東京駅 - 下関駅間運転の急行列車は定期4往復・不定期2往復となった。
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