宮崎方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
7月24日、第3旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第1旅団は末吉を攻撃し、別働第2旅団は財部を攻撃した。そしてついに第3旅団・別働第3旅団・第4旅団が都城を陥落させた。25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第3旅団に敗北した。この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。 薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。 宮崎方面 - 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊 延岡・三田井・豊後方面 - 池上四郎奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞) 学の木・清武方面雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊 天包山・尾泊方面干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵) 飫肥方面飫肥隊(司令川崎新五郎) 佐土原方面佐土原隊 高鍋方面高鍋隊(司令坂田諸潔) 7月27日、別働第3旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第2旅団は28日、別働第2旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により征討軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、征討軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。 都城・飫肥・串間をおさえた第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は7月30日、宮崎の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。31日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため征討軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、宮崎から撤退したため、征討軍は宮崎を占領した。次いで第2旅団により佐土原も占領した。 そこで宮崎・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて征討軍の進撃に備えた。これに対し征討軍は、広瀬の海辺から第4旅団・第3旅団・第2旅団・別働第2旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第3旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。 8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。
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